2016年2月29日月曜日

18.飛び石(2/2)鹿町川

鹿町川の飛び石
 ここの飛び石は、自然石をそのまま並べていて、何も加工が加えられていないものです。
 鹿町小学校の登り口に近い所で植松バス停もあります。昔は小学生が川遊びをしながら登下校していた所でしょう。小学生もめっきり数が減っています。対岸には民家がありますが、今では、この飛び石を使う人はいないのではないでしょうか。私が近くに勤務していた時には、散歩やジョギングで時々渡ったこともありました。今回写真を撮りに行った時も、以前と変わらずに使えそうでしたが。
 鹿町川にはこの下流にも飛び石があった所が、2か所確認できました。ひとつは

 両岸には川へ下って行く道が、土手の工事をした後に取り付けられています。その両側には細いけども、道路が伸びています。すぐ近くに土井の浦橋ができたので不要になったようです。

 ここは鹿町川でも下流ですから、潮の満ち引きが大きい所です。ここの飛び石は見たことがありましたが、今では全く石は何もありませんが、両岸から川へ降りる階段が残っています。この飛び石は、川向うの田んぼへ農家の人が農作業に行くのに使っていたと聞きましたが、大潮の満潮時には使えなかったでしょう。

江迎町三浦の飛び石跡(江迎川)
 今はしゃれた歩道橋が架かっています。
 この橋の下辺りに、以前、飛び石がありました。私は川向こうに見える三浦住宅に住んでいて、中学校の3年間、毎日ここの飛び石を渡って通学していました。
 江戸時代の平戸街道はここを飛び石で渡っていたと記録にもあり、伊能忠敬も測量で渡っています。平戸街道ネットワークの会で街道ウォークをするときには私がガイドをして橋の上で説明をしています。
 私が渡った石はもしかしたら、全部ではなくても少しぐらいは、江戸時代のものもあったかもしれませんね。


次回は佐々町の棚田です




2016年2月22日月曜日

17.飛び石(1/2)相浦川

相浦川の飛び石
 江戸時代には川に橋が架かるのは珍しく、飛び石を置いて、そこを人々は渡ってのです。それが、現在に続いているところがわずかに残っているので紹介します。



説明文が分かりやすいので、そのまま写して書きます。
         相浦川の飛び石 
 旧松浦藩の領内の川に江戸時代の橋があった記録はほとんどない。これは一説には戦略上の目的といわれるが、本当は技術的に橋が架けられためであろう。金もなかったでしょう)
 そのため、橋の代わりの飛び石が各所にあったが、現在残っているのは相浦川の飛び石だけである。幾度かの改修を経ながら、江戸時代の始のころからあったことは確実である。
 飛び石は砂岩を用い、水切りを良くするために縦に長く加工し、
しかも安定のために孔を設けて木材を通した後、歩幅の間隔で並べ、砂利で固定されていた。これは長年の経験から考えられた昔の人の知恵と思われる。この飛び石は江戸時代から港として栄えた相浦へ通じる唯一の商業や行政の交通路であるが、明治11年に今の木の宮橋の所に木橋が初めて架けられて主役の座をゆずっている。今は途絶えたが、以前は地元川迎の寄合いで数年に一度はその補修を行っていた。これは生活のための大切な飛び石をまもる習慣であった。
 飛び石は歴史のなかで人と文化を渡してきた証人であり、今後も大切に保存して後世に残すのが私たちの務めです。
      平成5年10月  佐世保市教育委員会       

 この飛び石は現在も時々利用している人を見かけます。江戸時代からの石では中央部がすり減っています。人がよく歩いた証でしょう。天気が良い日にこの飛び石を歩きましたが、しっかりしているので安心して歩けましたす。
 相浦の「愛宕祭」(毎年2月25日頃の金~日)には、東漸寺の住職が「勝軍地蔵」を背中に背負って、この飛び石を渡り、愛宕山の山頂まで運び、2月25日に御開帳されています。今年の愛宕祭は2月26日(金)~28日(日)に行われます。
 この飛び石は佐世保市が文化財として指定していますので今後も残っていきそうです。新しい石で補修された部分もあります。

次回は鹿町川の飛び石です






2016年2月15日月曜日

16.相浦川沿いの棚田(4/4)皆瀬・中里

1.皆瀬(かいぜ)地区の棚田
 皆瀬にも以前は棚田が広がっていたと思われますが、かなりの部分が住宅地に変貌しています。皆瀬地区の高台の十文野(ともんの)付近の棚田を紹介します。
 現在の皆瀬は、相浦川沿いの低地に集落はまとまってありますが、明治の初め最初の小学校が庄屋屋敷に始まったのが、この十文野だそうです。今では農地と閑散とした集落です。小学校も下の集落地に移ってきています。
 古い神社の鳥居はずいぶん上ってきたところにあり、しっかりお祭りも行われています。


2.中里の棚田
 江戸時代、中里は平戸藩の郡代役所が置かれていて、現在の佐世保市の行政の中心地でした。相浦川の河口に近くなるので、平地の田んぼもありますが、すぐに山が迫り、棚田もかなりあります。

八の久保地区は山崩れで、八の字形に斜面が削られてそこに棚田が造られたといわれています。


 上の写真では八の字に削られた様子は分かりにくいうえに、棚田の擁壁は石垣でなく土で固められています。しかし、元は石垣で農地の改善事業で広い田んぼになり石垣は姿を消してしまいました。

3.実盛谷(さねもりだに)
 ここには棚田はありませんが、江戸時代農薬がない農民は相浦川上流の里美村→柚木村→大野→皆瀬→中里と鉦や太鼓を打ち鳴らし、害虫を追い出し最終地のここ実盛谷で実盛の恰好をした実盛人形を焼き捨て打ち上げたといわれています。実盛とは平安時代末期の武将、斎藤実盛のことで平家物語によると、実盛の最後は乗っていた馬が稲の切り株につまずいたためで、実盛が稲を食い荒らす害虫(ウンカ)になったとの言い伝えがあります。現在この谷は高速道路佐々・佐世保線になっています。

 この谷の下には、佐世保軽便鉄道時代のトンネルが埋まっています。高速道路工事でトンネルが埋まる3日前に通った時の写真を付けます。

 馬力が小さかった軽便鉄道はこの坂を越えることができず、トンネルだったのですが、現在の車は楽々と超えています。


次回は佐々町の棚田を予定していましたが、相浦川の飛び石とします。


2016年2月8日月曜日

15.相浦川沿いの棚田(3/4)大野

大野地区の棚田
 大野地区は佐世保市街とは言えないものの、かなり近く、海軍鎮守府ができたころから開発が進んできたようです。したがって、かなり高段まで住宅地が建てられていて、昔の棚田が住宅地になっています。それでもいくらかは棚田が残っていて、耕作されています。

 山から見たら、相浦川沿いの低地にはびっしりと家並みが建ち高層のマンションも近頃は増えています。

 棚田の上にも、住宅地が造られ、町内会の名前に「坂の上」とか「坂の下」という呼び名のところもあります。

 相浦川沿いの開拓は川下から、上流へ進んだいますが、その中心地は大野地区です。ここにある祝詞(のりと)神社には「開拓1000年」の記念碑が昭和53年(1978)に建てられています。

 その他にも、「矢保佐(やぼさ)神社」が2キロ毎に、現在も5か所ほどあり、まとまった開拓開墾が終わったところに建てたといわれています。その中心が祝詞神社ということだそうです。

次回は皆瀬、中里の棚田です。







2016年2月1日月曜日

14.相浦川沿いの棚田(2/4)柚木

柚木(ゆのき)の棚田
 現在の柚木地区は農村と言えますが、昭和40年代までは、炭鉱町として栄えていました。山際には棚田が残っています。


 しかし、ここの中心地は、耕地の改善事業が行われ、昔棚田だったところが、広い田畑になっています。そこには、大きな記念碑が建てられ、詳しい説明文が書かれています。

 碑文によると、106ヘクタールの広さの田畑が、小さな棚田だったものが区画整理されたとのことです。大型機械で整地されたのですから、石垣はほとんどなく、段差は土で固められていて、棚田ではないように見えます。山ばかりの長崎県内では、100ヘクタールを超えるような農地は数少ないものです。


 この整地された付近は「相当原(そうとうばる)」と呼ばれていて、戦国時代には合戦があり、今も語り継がれています。ここから下ったところに、柚木の町があり、鉄道も来ていましたが、今はなくなっています。
 山からなだらかに下ってくるところに、炭住街の跡が見られます。

 今は普通の住宅ですが、道に沿って段差がついています。住民に聞いたら、昔は炭住で、その前は棚田であったとのことでした。この道の左側には、炭鉱の坑口をふさいだところもあります。右側の川向うには、炭鉱住宅をそのまま利用しているところもあります。


次回は大野地区の棚田です