2016年6月27日月曜日

35.薩摩塔(1)志々伎神社沖の宮

薩摩塔について 
 薩摩塔は、昭和30年代に斎藤彦松氏によって、発見、命名されたものです。当初は鹿児島県でだけ見つかったので、「薩摩塔」と名付けられたのでしょう。
 これは、最初に発見されたもので、南さつま市坊津町の一乗院跡にあったものと伝えられ、現在は、「坊津歴史資料センター輝津館」に保存されています。
 
 その後、長崎県、佐賀県、福岡県でも発見され、現在では、40基余のものが確認されています。
 長崎県、佐賀県のものは、大石一久氏が中心に発見されています。福岡県では、久山町の首羅山遺跡から発見され、井形進氏を中心に調査がされています。首羅山遺跡の薩摩塔の写真を示します。

 これらは独特の風貌をしており、今までの日本には見慣れないもので、しかも、九州の西側、海岸というか港寄りの所ばかりです。
 その後、鹿児島大学の3人の先生の共同研究で、これらの石は中国、浙江省産石材「梅園石」と現地での調査、偏光顕微鏡観察やX線顕微鏡による元素とその分布パターンが酷似していて、日本国内では産出していないものであることから、中国産の石材と結論付けています。
 年代としては、12、13世紀(中国の宋の頃)を中心として製作されたもので、当時、日本に住んでいた中国人商人が交易の中で、もたらしたものではなかろうかと考えられるとのことです。
 このように、場所と時代がごく限られた範囲にしかないものが、薩摩塔と言われるものではないでしょうか。
 
 長崎県では、平戸市で13基、大村市で1基、確認されていますので、平戸市のものを紹介していきます。
 
(1)志々伎神社沖の宮

 志々伎神社沖の宮は、平戸市野子町宮ノ浦の離れ小島でしたが、今では漁港の整備のため、コンクリートの防波堤で歩いて行けるようになっています。その神社境内に上の写真のような、崩れかけた大きな石があります。六角形の径は1m以上で、崩れる前には、高さは3m以上はあったろうと言われるものです。
 ところが、文政5年(1822)「志自伎沖之宮石鉢図」(松浦史料博物館所蔵)に描かれたものが残っています。
 これでも、500年ぐらいは経過しているので、草も生えているし、少し壊れているのかも知れません。
 沖の宮の左側に、この薩摩塔はありますが、右側には「宋風獅子」と呼ばれる石像もあります。
 これも、研究者から梅園石とされ、痛みもひどく、真ん中に大きな亀裂が入っています。これらのものは、他のどこのものより大きく、船で運んできて陸揚げしてすぐ近くに置いたという感じがします。

次回は志々伎神社中宮の薩摩塔です


 
 
 


2016年6月20日月曜日

34.支石墓から出土の鰹節形大珠

佐々町狸山支石墓群から出土の珠
 佐々町の狸山に、古代の支石墓群があり、長崎県の文化財に指定されています。その説明文を写真で示します。

 ここは小高い丘で、日当たりも良い所です。以前は自由に入ることができたけど、最近は柵をめぐらして施錠されています。

 現在では、支え石は埋もれてしまっていて、平たい大きな石が数個見られるだけです。以前に発掘調査もされていますが、御多分に漏れず、盗掘がかなりされていたようです。
 その中で、出色のものは「鰹節形大珠」と呼ばれる身装品です。古代の墓から出土するものに勾玉は多いのですが、この珠は曲がりがなくまっすぐなものです。
 長辺が4.4cmですが、珠としては大きな部類に入るものでしょう。この石は「長崎ヒスイ」と言われています。以前は、佐々町資料館に施錠されたカラス戸棚に置かれて、展示されていましたが、その資料館が老朽化して取り壊されて、再建の目途はたっていないそうです。そこにあった資料は教育委員会が公民館のあちこちに保管しているとのことでした。しかし、鰹節形大珠は教育委員長室で大切に保管しているとのことで、学芸員がそこから持ってきて写真を撮らせてもらえました。ヒスイは硬玉と言われていますが、触った感じでは、硬さはあまり感じずに、その後指をこすったら、つるつるとよく滑り、蝋石みたいな粉が付いたような感じでした。この珠には丸い穴をあけて、ひもを通し首飾りとして使われていたものではないでしょうか。穴は真円と思われ、珠全体によく磨かれていました。

次回からは薩摩塔を取り上げていきます。





2016年6月13日月曜日

33.織部灯篭(3)平戸館山 

平戸館山
 平戸市史(民俗編)に写真があり、織部灯篭があることは早くから知っていたけど、現物を探し出すのには苦労しました。
 やっと見つけたときは、竹藪の中に埋もれていて、写真でも良く分かりません。この竹は矢竹のようですが、確証はありません。
 
 その後、剪定ばさみを持って出かけ、周りの藪を払ったらちゃんと出てきました。
 
 間違いなく織部灯篭です。平戸市史の写真にある他の五輪塔なども周りにあります。
 
 彫りこみの像もはっきりとはしませんが、確かにあります。しかし、織部灯篭は庭園に建てられるものですが、ここは墓地跡のような感じがします。場所は松浦史料博物館のすぐ下です。
 
 この階段の左側に六角井戸という史跡があり、
 
 その横には、大きな古いソテツもあります。
 
 これらの上の段に、個人の敷地と博物館の石垣の間の狭い空間にあったので、近くを何度も探していたのに、分からなかったのです。なぜここにあるのかはわかりませんが、昔は武家屋敷があり、庭園があったのかも知れません。お堂があり墓地や供養塔もあったのかも知れません。他の織部灯篭と同じ白い花崗岩で造られています。
 
次回は佐々町狸山出土の鰹節形大珠です
 
 


2016年6月6日月曜日

32.織部灯篭(2)平戸棲霞園

平戸棲霞(せいか)園の織部灯篭
 平戸藩第10代藩主、松浦熈の時、平戸城の西麓、平戸湾が見える見晴らしがよい所に、藩主の別邸として、屋敷と庭園が造られました。京都の棲霞観を模したものだそうです。現在は松浦分家の人のものですが、広い敷地内には住む人もいません。したがって、庭園内に立ち入ることもできず、写真を撮ることもできず困っていましたが、南九州大学の教授が学生を連れて、庭園の調査と修復に見えていたので、その時にお邪魔して写真を撮ることができました。
 庭園の上段には完全な形をした織部灯篭があります。
庭の感じは部分ですがこんなものです。昔は立派な庭園だったたたずまいです。

 屋敷に近い所にもう1基あります。

 こちらのは、火袋がありません。後から聞いた話では、火袋はあるらしく、次回に学生を連れてきたときに、火袋を載せて修復するとのことです。

次回は平戸館山の織部灯篭です