2017年7月31日月曜日

92.世知原町の動物モニュメント2

(1)長生橋のカッパ石像
 県道54号線、動物石像が終わったその先には長生橋が架かっています。親柱4本の上にカッパの石像が乗っています。
 河川に渕があるところでは、カッパ伝説があるところが全国的にありますが、世知原にもあったのでしょう。

 最初のものは片手を目に当てていて、もう一方の手を胸に当てています。これがサルであれば、「見ざる、思わざる」になるのかとも思いました。

 次のものは両手両足を組んで口を大きく開け、空に向かった視線をしています。

 次は正面を向いていますが、口裂け男みたいに横に広く口が
開いて怖そうな表情です。
 

 
 最後のは膝を立てたように見えますが、両足の間が開いているのが他のものと違うようです。

 造られてからそれほど時間経過はないのに、この花崗岩の性質らしく、文字は読みづらいし、カッパの表情も分かりにくいものです。しかし後ろから見れば、頭の上の皿と背中の甲羅がはっきりしています。


(2)温泉湧出記念の親子サル


 ここは現在、山暖簾(やまのれん)という天然温泉を有し、建物の設計者が当代一流の黒川紀章氏ということもあり客の入りは良さそうです。佐世保の奥座敷というキャッチコピーも使われています。

 温泉が湧出した頃は、国民宿舎「国見山荘」と言っていました。温泉が出て営業を始めたとき早速行きましたが、屋外に板囲いをした施設で、鉄分が多く含まれていそうで、赤茶けた色でした。その後民間経営となり、現在のような大規模の営業となりました。

 道路脇の自動販売機があり、1コイン(20円)で20Lの温泉が買えたのですが、残念なことに今では使えなくなっています。

 この親子猿の石像には、台座に2000年11月、温泉湧出記念、利根地下技術株式会社とはっきりと彫りこまれています。民間企業では宣伝の意味もあるのでしょうが、しっかりされています。その点、地方の行政組織では誰が何時行ったものか分からない立札などが多いのには困ります。これらの石像は地域の人が大切の扱ってくれれば何百年も残っていき、石の味わいも出てくるのではないでしょうか。

次回は佐々町の参道狛犬たちです








2017年7月24日月曜日

91.世知原町の動物モニュメント1

県道54線沿いの動物の石像(佐世保市世知原町)
 合併前の北松浦郡世知原町の中心地の道路沿い、歩道の所に6か所あります。昭和40年代に当時の世知原町が設置したものですが、説明板は立派なものがあり良く分かるのですが、設置者と期日が記されてないのが残念です。

(1)ホンドテン



(2)キュウシュウノウサギ



(3)イタチ





(4)ホンドタヌキ





(5)ホンドギツネ



(6)ホンドザル



 世知原町は山間の地で、町の中央で標高300mといわれる所で、町を流れる佐々川とその支流には明治以降に架けられたアーチ形の石橋が16も残存していていたり、明治にできた石造りの炭鉱の事務所跡は長崎県の文化財に指定されています。
 これらの動物の石像が何年に作られたものか、佐世保市役所世知原分室で調べてもらいましたが何の記録もないとのことでした。

次回は世知原町の動物モニュメント2です



2017年7月17日月曜日

90.平戸の潮見神社の可愛い狛犬

潮見神社(平戸市大志々伎町)
 平戸の大志々伎町で肥前狛犬を見つけたと吉永さんから電話があったので、早速見に行きました。

 本殿の前に1対2体のかわいらしい狛犬が鎮座しています。


 白い花崗岩に彫られたもので、30センチほどの大きさで、ア・ウンの1対で本殿を守るように配置されています。これを見つけた吉永さんは「肥前狛犬」と思われたようですが、これは肥前狛犬の部類には入りません。大正もしくは昭和に作られたものでしょう。
 この神社には、平成18年に奉納された真新しい参道狛犬も1対、鳥居横にあります。

 これも白い花崗岩に彫られた、岡崎型と呼ばれるものです。この神社の境内には、数多くの灯篭が奉納され、江戸時代のものが多くありますが、狛犬は現、近代に奉納されたようです。
 近くの海岸に貝堀に来た年配のご婦人に神社のことを聞いたら詳しい話が聞けました。この方は、潮見神社のことを「おしおみさま」と言い、この神社には古くから「じゃんぐわら」が受け継がれていて、大志々伎の人たちが、まずこの神社にじゃんぐわらの踊りを奉納して、その後、船に乗せて志々伎湾の向かい側にある志々伎神社に向かうそうです。この大志々伎のじゃんぐわらが行かないと、志々伎神社の扉が開かないのだと、自慢そうに話してくれました。平戸市内には大きな幟旗をかざし、衣装を着飾った人たちが勇壮に踊るお祭りが各地に残されていて、無形文化財にも指定されています。

次回は世知原町の動物モニュメントです



2017年7月10日月曜日

89.平戸の神父の墓

マタラ神父の墓(平戸市田崎町)
 平戸市には江戸時代にキリシタン墓地はすべて破壊されて残っているものはないとのことで、その当時のキリシタン墓はありません。平戸大橋を渡り、南部へ向かっていると、宝亀(ほうき)の先、紐差(ひもさし)の手前の国道に、マタラ神父の墓入り口の標識があったのでた訪ねてみました。
 この墓のことは、前から知り合いの、広島カープの今村猛投手(背番号16)の祖母から聞いていました。
 分岐点からずいぶん走ってもそれらしいところもなく、道はかなり細くなってきた所で、農作業をしている年配の女性がおられたので、尋ねてみました。神父の墓は500m程先で、公民館の近くであること、かまぼこ型の墓石はコンクリートらしいこと、この田崎集落は全員カトリック信者であることなど聞きました。今村投手の祖母のことを話したら、自分の妹だとのことで、顔つきが姉妹でよく似ておられることに気付きました。

 田崎集落の墓地は全てカトリック様式です。神父の墓がコンクリートと聞いて少しがっかりしていたのに、このかまぼこ型は石のように見えます。

 この墓地で石材店の人が作業していたので、尋ねたらここまで来て、安山岩だといわれコンクリートでなくホッとしました。手前の花筒は御影石ですが。これは中国の石で、自分が工事したのだとのことでした。
 この神父さんは紐差教会の建設に当たられた人だそうです。フランス人で、大正10年にこの地で亡くなられたと記されています。

 平戸は江戸時代、キリシタンの嫌疑を徳川幕府にかけられ、徹底したキリシタン弾圧をしたと伝えられています。戦国時代から江戸初期のキリシタン墓は全国に100基以上認められるそうですが、平戸には全くありません。しかし、潜伏キリシタンは脈々と生きつづき、今では世界遺産登録には、長崎の教会群ではなく、潜伏キリシタンに関するものがユネスコに申請されるなりました。

次回は平戸の潮見神社のかわいらしい狛犬です






2017年7月3日月曜日

88.織部灯篭(4)

徳川美術館
 たつた会(熊本大学工学部電気工学科・昭和36年入学のクラス会)の集まりで、名古屋で懇親会をして、翌日の見学で徳川美術館に行きました。
 

 かつて徳川御三家の筆頭、62万石の大大名の所だけあって、立派なものです。パンフレットの写真を示していますが、国宝の源氏物語絵巻に代表されるような数々の美術工芸品が多数収蔵されています。
 昼を食べるために、庭を横切ってレストランに行くとき、茶室そばの庭園の一角に、白御影石の石灯篭がありました。

 近づいてよく見たら、織部灯篭でした。戦国時代から江戸時代初期にかけて、千利休の後、古田織部は天下一の茶人として活躍し、織部焼の茶碗は特に有名ですが、茶室のある庭園には織部が考案した独特の石灯篭が大名の庭園などに残されているそうです。以前、平戸藩のものを紹介しましたが、これらは最近では手入れが行き届かず、かなり荒れて、傷んでいました。しかし、ここのものは、きれいなままで残されていました。

 この角度から見れば、竿のT型が分かり、下部の人形みたいな彫り物も良く分かります。織部灯篭をキリシタン灯篭と呼ぶ向きもありますが、徳川家の庭ではありえないことでしょう。
 偶然に見つけた、織部灯篭ですが、全国的にはかなりあるとのことですが、普通にみられるところにはあまりなさそうです。

次回は平戸の神父の墓