2018年7月30日月曜日

144.小値賀の古墳

神方古墳
 本来は西林寺(シャリジ)跡の六地蔵らしいものを探しに行って、地元の人に聞いたらここに案内されたので古墳も古代人の手がかかっているのだからということで取り上げました。




 小値賀という小さな島にも古代人が住み着いて、古墳を作るような権力者の存在があったということが、不思議です。前日行った宇久島でも古墳の石だと神社に保管されたものも見ました。
 西林寺跡の六地蔵塔(?)は小値賀町教育委員会の平田さんから示された写真を


 六地蔵らしいということですが、郷土誌でも断言していません。今回の調査ではこの場所を確認できなかったので、この写真だけですが、砂岩でかなり摩耗していてお地蔵さんの姿が確認できませんが、六面確認してみたいものです。近くには笠もありますが、寄せ集めですからどれのものか分かりません。

次回からは佐賀県の肥前狛犬に戻ります






2018年7月23日月曜日

143.小値賀の六地蔵塔

柳のキョンタケ墓地の六地蔵塔
 郷誌には「柳のキョンタケ墓地の回り所」に六地蔵塔が記載されているのを読んでいたので、機会があれば行ってみようと思っていました。
 柳地区に入り、自転車をこいでいくと、古いたたずまいの志々伎神社や立派な松並木が続く「姫の松原」とあります。そして中学校入り口とありキョンタケ墓地はずいぶん前に通り過ぎたようです。島を巡るときは注意しないとすぐに通り過ぎます。戻って農作業をしている人に聞いたらすぐにわかりました。



 墓地では10人ばかりの年配のご婦人が墓参りに見えていました。聞いたら、前日近所で葬式があって、花をもらったので墓参りに持ってきたそうです。
 回り所というのは墓地の入口の小さなロータリーみたいなところです。竿石は円柱ですが、文字がありそうにも見えますが、読み取ることは出来ませんでした。

次回は小値賀島の古墳です 







2018年7月16日月曜日

142.小値賀の鎮信鳥居・浜津神社

浜津神社(小値賀町浜津郷)
 小値賀町の道路の分岐点には、右左の矢印で行先の地名が良く表示されています。さらに良いことに、そこの地名も書き込まれていることです。自転車で島の道を地図を片手に一周しましたが、行った所の地名の表示は他では見ることはなく、非常に良く分かりました。自転車のスピードでは神社を見落とすことはなく、すぐに見つけ出せました。

 前から見ても

 裏から見ても完全に肥前型の鳥居です。しかし、笠木は2本継ぎ、貫と柱は1本ものです。ということで新しいもので江戸時代のものではなかろうと思い柱をよく見たら、明治20年の文字が確認できました。前回の前方郷唐見崎の若宮神社の鳥居もやはり同じ形ですから同年代のものでしょう。若宮神社の説明板には江戸時代のものだろうとのことでしたが、明治以降のものと思われます。
 鳥居のすぐ横に精米所があり、作業している年配の人に浜津神社について話を聞くことができました。近くにあった数社の神社を合祀してこの地に祭られたそうです。本殿前の鳥居は明治21年に建設された明神型のものでした。2年続けて石の鳥居を奉納するとは珍しいので聞いてみたら、昔はこの辺には大勢の人が住んでいたのだそうです。
 以前に小値賀では3基の鎮信鳥居を紹介しましたが、これで、合わせて5基の同型の鳥居を確認できました。今回の2基は郷土誌には紹介されてなかったので、気付きませんでしたが、江戸時代のものでないので、記載がなかったのではないでしょうか。

次回は小値賀町の六地蔵塔です









2018年7月9日月曜日

141.小値賀の鎮信鳥居・若宮神社

 宇久島と小値賀島は五島列島の北の端の隣り合った島で、江戸時代には、宇久は五島藩、小値賀は平戸藩だったということもあり、何かと張り合ってきたことが言われています。
 平成の合併で宇久は佐世保市に編入されましたが、小値賀は北松浦郡小値賀町のままです。現在の人口を聞いたら、宇久は2000人くらい、小値賀は2500人くらいとのことでした。農業と漁業が主な産業ですが、最近は魚があまり獲れなくなったそうで、漁船も少なく感じました。農業も田んぼが少なく、畑が多いようですが、牧草地が多く放牧場も含めて、牛(黒毛和牛)の飼育が、両島に共通しているようです。
 小値賀を巡るにあたって、小値賀町教育委員会の平田さんに大変お世話になりました。島内の地図と史跡近辺の写真を添えたものを用意されていて、早朝にフェリーの船着き場まで持ってきてもらいましたので、自転車で巡り歩くのは楽でした。

若宮神社の鎮信鳥居(小値賀町前方郷唐見崎里の前)


 海岸そばですが、近くに集落はあるけど神社の所には、何もありません。新しい説明板がありました。

 旧若宮神社と書かれています。鳥居から続く階段を登ったら、本殿跡らしいところがあり、祠の中は空っぽでした。

 若宮神社という神社は島内に他の所にも見られます。そちらに合祀されたのでしょう。過疎化で神社の維持もむつかしいようです。

次回は浜津神社の鎮信鳥居です






2018年7月2日月曜日

140.宇久島の六地蔵5

神浦郷向地蔵堂の六地蔵塔
 大きな木があるところにあったと、和尚さんに連れて行ってもらいました。神浦郷の向(むかい)地蔵堂で、宇久島新四国第20番札所と書かれています。

 回りには他にもいろんな石仏が寄せ集められています。


 ここの六地蔵さんは近くの住民から大切にされているようです。  もう一か所、郷土誌に記載されている『神浦郷 平利男の畑、享保16年(1731)の記銘名年あり』を探すために、神浦郵便局により、『平利男』さんのことを聞きましたが、年配の局長さんによると、この方の一家はずいぶん前に島を離れたそうです。親切な局長さんはあちこち親戚にあたる人の所へ電話をされて尋ねられましたが、今では、『平利男』さんの消息を知っている人もなく、畑も探すことは出来ませんでした。
 和尚さんは宇久島のことは今では島で一番詳しいだろうとおっしゃって、帰り道で、石のアーチ橋へも寄りました。

 夏草が繁っていてはっきりとは分かりにくいですが、確かにアーチの石が見えます。明治時代に建造されたものだそうです。現在はすぐ横に橋と道路が造られそこを通るので、全く利用はされていませんが、昔は本通りだったと思われます。
 途中で、肥前型の鳥居を見た気がするとのことで、神社の鳥居も何か所も見ましたが、やはり、明神型のものばかりでした。
 和尚さんの車で回ったので、狭い島の中はあっという間に済んでしまいました。和尚さんには本当にお世話になりました。予約していた民宿に入るのも早すぎるので、もしかして、肥前狛犬はなかろうかと一人自転車で主な神社を見て回りましたが、どこにも見つかりませんでした。

次回は小値賀島を巡ります