2016年12月26日月曜日

61.佐賀県の肥前狛犬 多久2

多久2
 江戸時代になる以前の戦国時代に、佐世保の相浦から移住をしてきた人たちがこの界隈に住みついたそうです。地名にその名残をとどめを思わせるものがありますが、詳しいことは肥前狛犬保護の関点から示さないことにします。



 1対2体ですが、アと思われる小さい方には角が1本あります。ずっと室内に安置されていたようで、傷みもなく、きれいにしています。

次回は多久3とします




2016年12月19日月曜日

60.佐賀県の肥前狛犬 多久1

多久市の肥前狛犬 1
 肥前の国と言えば佐賀県と長崎県ですが、江戸時代までは、長崎県側よりも佐賀県側が人口も多く、時代をさかのぼればなおさら佐賀側が古い歴史を感じさせます。
 以前に肥前鳥居をブログの書きましたが、それも佐賀には古いものが数多くあります。現在、「肥前」が付く石造物は「肥前鳥居」と「肥前狛犬」だけです。それらも長崎県では歴史研究家の中でもそれほど注目されることはありません。ところが、佐賀県には鳥居も狛犬も熱心な研究家が大勢います。実は佐賀県の人に肥前狛犬のことは教えてもらい、初めて気が付いた次第です。そんなわけで佐賀県には数多くの肥前狛犬が現存し、研究家、愛好家が盛んに活動されています。



 神社名を出すことができないのが残念です。小さいけど愛らしい顔をしています。写真を撮るために動かしました。盗まれはしないかと心配になります。

次回は多久の肥前狛犬2です



2016年12月12日月曜日

59.長崎県の肥前狛犬(10)大村

大村の肥前狛犬
 この神社も無人の社ですから、神社名は伏せておきます。参道右側のは、葛が巻き付いていたので、取り払ってから写真を撮りました。


 左側のも、間もなく葛に巻かれそうです。苔も生えています。どちらも、屋外の雨ざらし日ざらしですから、石の風化も進み、顔だちも良く分かりません。



 大村では、ここだけしか肥前狛犬はないそうです。長崎県内には他に長崎市内や島原半島にもあると聞いていますが、まだ探し出せずにいます。

次回からは佐賀県の肥前狛犬を書きます



2016年12月5日月曜日

58.長崎県の肥前狛犬(9)諫早5

諫早の肥前狛犬5
 珍しいことに、ここの肥前狛犬は池の中にあります。

 本殿右側のは頭の部分だけ水からのぞかせています。苔も生えているので、よく見ないとわからないものです。左側のは

 池の中の石の上に置かれていて、しかも、池の水は抜けてしまっているので、全体が分かります。これまでにはずいぶん狛犬は見てきましたが、池の中にあるのは初めてでした。以上、諫早の肥前狛犬は7対14体でした。

次回は大村の肥前狛犬です





2016年11月28日月曜日

57.長崎県の肥前狛犬(8)諫早4

諫早の肥前狛犬4
 ここにも肥前狛犬が2対4基ありました。新しいものと、古いものがはっきりしています。古い方から
 

 駐車場のすぐ近くの石の祠のそばに、注連縄を2体まとめてかけられていました。


 古くて苔も生えています。石もかなり風化して、狛犬とも思えない姿になっています。ここは神殿からは少し離れた所です。
 本殿には、新しい肥前狛犬が1対2体、神殿を守るようにいました。

 小さいので、移動して光を当てて写真に収めました。


  砂岩で造られたこの肥前狛犬は、屋内にあるので、風雨にさらされることもなく、白くなってしまいました。
 参道狛犬の本を読んでいたら、新しい狛犬が奉納されたら、古いものは現役を引退させられて、神社の片隅に片付けられていて、それらのことを、先代の狛犬と呼ばれています。したがって、駐車場のそばのものは、先代の肥前狛犬といったところでしょうが、注連縄もかけられているので、大切には扱われているようです。

次回は諫早5です

 

2016年11月21日月曜日

56.長崎県の肥前狛犬(7)諫早3

諫早の肥前狛犬3 
 このお宮には、肥前狛犬が2対4体あります。石の祠が横に3基並び、中央の祠の左右に、小型の肥前狛犬が1対2体あります。

 




 ア・ウンは良く分かりません。そして、祠の両端には、中型の肥前狛犬が1対2体あります。右側には


左側には


 この中型のものは、左側がアで、右側がウンとはっきり分かります。どちらが古いのか新しいのかはよく分かりません。もともとこの場所に最初からあったとは思われません。とくに、中型の分は台からずいぶんはみ出しています。小型が多い肥前狛犬は、後世寄せ集められたことが多いようです。

次回は諫早4です




2016年11月14日月曜日

55.長崎県の肥前狛犬(6)諫早2

諫早の肥前狛犬2
 
 向かって右側のものです。




後ろ姿です


 向かって左側は



 小型で、縦長のもので、ア・ウンどちらがどうか分かりません。よく似たユーモラスな顔です。

次回は諫早3です








2016年11月7日月曜日

54.長崎県の肥前狛犬(5)諫早1

諫早の肥前狛犬1
 江戸時代、諫早は佐賀藩領の土地でした。肥前鳥居もあるし、六地蔵塔も佐賀型のものがいくつもあります。あるだろうと予想はしていましたが、確かにありました。しかし、神社名を挙げてブログに書きだすのには、抵抗があります。この肥前狛犬は、最近知っている人には貴重品扱いされ、品物が小さいうえに、神社は無人の所が多く、盗難にあい、古物商の店先にあったり、ネットオークションにかけられたりしているようなこともあります。したがって、このブログでも、安心できるところ以外は神社名を伏せて書くことにします。しばらくは、神社名は書くことができません。問い合わせいただければ場所を教えることは出来ます。




 正面からと横からと写真を2枚づつ示します。ア、ウン一対ですが、どちらもかなり石が流れていて、アかウンか定かではありません。安山岩と石材は思われます。時代的には戦国時代から江戸時代初期のものではないでしょうか。

次回は諫早2です






2016年10月31日月曜日

53.長崎県の肥前狛犬(4)平戸

4.亀岡神社(平戸市)
 亀岡神社には神殿の中に、肥前狛犬がいることを、「肥前狛犬を学ぶ会」の永渕氏から聞いていました。そこで、宮司に電話で確認して、永渕氏と一緒に出掛けました。神殿の中は、奥まったところにあり写真は撮れそうもない所にあるそうです。しかし、末社のお稲荷さんの所に同じものがあるとのことで、案内してもらてやっとわかりました。高校の頃は、神社内をずいぶん歩き回っていたつもりでしたが、宮司に案内されたところは、知らないところばかりでした。

 お稲荷さんの石の祠の前に2体、仲良く並んでいます。
 
 
 ずいぶん苔むしてきていますが、砂岩のようです。顔が扁平で、彫も浅く、今まで見たものと一味違います。
 神殿の中のものは見ることは出来ませんでした。狛犬は神殿を守るもので、神殿にあるのは、神様そのものです。狛犬が神殿の中にいるのは、おかしいのではないかと、若い宮司さんに言ったところ、ずっと前から、こうなっていたので、自分の一存ではどうもできないとのことでした。
 この付近には古い神殿や石の祠も多数残っています。ここは明治になってから、亀岡神社となりましたが、江戸時代には、「霊椿山神社」といって、平戸松浦家の神社があったところです。古い神殿の外に1対古くて小さな狛犬もいました。
 
 
 もしかして、肥前狛犬と思いましたが、永渕氏の説明では、台座があるものは、時代が後のものだそうです。現在のような獅子狛犬に移り変わっていくときの、過程のものかもしれません。
 江戸時代に佐賀の砥川石工が、平戸方面に出稼ぎに行っていたとの記録も残っています。江戸時代の砥川は多久領でしたので、多久の代官に願い出て切手を発行してもらったようです。その一部を記しますと
 ①寛政5年(1793)1月 小城砥川村の石工、五嶋、平戸で仕事をする為に、日数280日の切手を申請する。5人組6人。
 ②寛政10年(1798)8月 砥川谷の百姓佐平次、石細工の為の五嶋と平戸へ罷り越したく往来日数200日を願出る。
 ③寛政13年(1801)3月 砥川村の百姓、平次郎、貞次郎、貞十とその子彦松の4人石細工為五嶋平戸へ出稼したく250日の御切手を願出て、差免され切手を渡される。
 とあります。当時の石工は百姓をしながら、注文があれば石細工をしていたようです。現金収入を得るためには、出稼ぎもしていたようです。
 したがって、平戸や松浦の狛犬も砥川の石工がかかわっていた
ことも考えられます。
 
次回からは諫早方面の肥前狛犬です
 
 
 
 
 
 
 


2016年10月24日月曜日

52.長崎県の肥前狛犬(3)志佐

3.松山神社(松浦市志佐町)
 この神社には、今まで何度も来ていました。最初は、鎮信鳥居(肥前鳥居の旧平戸藩内のもの)を見つけていた時、鳥居は古いものでしたが、明神型でした。六地蔵塔もあり、それを探していた時も来たし、松浦市の郷土史家に記念碑の拓本採りを依頼された時も来ていました、しかし、大きな普通の狛犬があることは知っていましたが、肥前狛犬は佐賀の人に指摘されるまでは全く知らずに、素通りしていたのです。
 右側にいるのが阿形で、少しですが口が開いています。古い鳥居のそばです。

 左側が吽形で、口を閉じています。

 30センチほどの小さなものです。どちらも足をセメントで台座に固定されています。これでは行方不明になることはないでしょう。どのようないきさつで、この肥前狛犬がこの神社にいるのか、不明です。松浦市の文化財に指定されることもなく、郷土史家も知らないのではないでしょうか。石は砂岩ではなく安山岩みたいです。そうすると、小城牛津・砥川の石工が造った可能性もあります。江戸初期ではなく、かなり整った形をしているので、江戸中期頃ではないでしょうか。

次回は平戸の肥前狛犬です






2016年10月17日月曜日

51.長崎県の肥前狛犬(2)調川

2.調川の肥前狛犬
 最近、肥前狛犬は小型であることと、そのユーモラスで独特の風貌から、盗難にもあっています。古物商の店先に出たり、ネットオークションに出されたりもしています。そんなこともあり、場所を特定できる神社名などは、ブログでは発表しないことが多くなってきました。したがって、大丈夫と思われるところ以外は、私も詳しい場所は公表しないことにします。
 ここの狛犬は、参道を登ったら左右に1対2体あります。口を開けた阿(あ)像は

 口を結んだ吽(うん)像は
向き合っていますが、後のは口の所が、壊れているので本来の阿吽は逆なのかもしれません。 

次回は松山神社に行きます
 


2016年10月10日月曜日

50.長崎県の肥前狛犬(1)鷹島 

肥前狛犬について
 神社に行けば、石造物としては、鳥居や灯篭が見られますが、この他に、狛犬もよく見かけます。全国的には、「日本参道狛犬研究会」というのもあり、ファンも多く、会報も隔月に出されています。
 これは、熊野神社(佐々町)のものですが、一般的に参道に置かれ、参道狛犬ともいわれますが、獅子狛犬とも呼ばれています。狛犬の中でも、肥前狛犬は佐賀県を中心に長崎、福岡県にもいくらかありますので、紹介していきます。
 肥前と名が付く石造物は肥前鳥居と肥前狛犬だけです。これらの石像物を造ったのは、現在の佐賀県小城市砥川(とがわ)の石工集団です。時代としては安土桃山~江戸時代中期までの、160年間と言われています。

 長崎県では、数が少なく、普通の人が見ることもなく、肥前狛犬との認識がありません。佐賀県には「肥前狛犬を学ぶ会」という団体もあります。早速この会に入会して勉強を始めました。

1.住吉神社(松浦市鷹島)
 元寇の島、石の島、そしてホークスアイランド。この島には、やはり肥前狛犬もいました。由緒ある住吉神社です。

 本殿の奥の神殿を守るように、右側に3体、左に2体、小さいものです。それぞれを見ますと、右側の小さい方から
 
 
 
 これらは、砂岩製で、小さいものの高さは、20センチほど、大きいものでも、40センチくらいです。左側のは


 こちらの石は、鷹島産の玄武岩かも知れません。これらの5体はコンクリートで固定されています。海岸からあまり離れていないので、風で飛ばされて壊れないためか、最近肥前狛犬が盗まれることがあるので、その予防でしょうか。
 いずれも独特の風貌をしており、肥前狛犬は同じものはないといわれています。鼻の孔に土ハチが巣を作っているのもユーモラスです。普通、狛犬は1対2体で奉納されていますが、ここに5体あるのは、昔は3対6体だったのかも知れません。境内には昔の本殿、神殿も残されていて、移転に際して移されたときに、このような配置になったのでしょうが、本来は、1対のものを左右に向き合わせたものです。 

次回は調川の肥前狛犬です。