吉井小学校と書きましたが、現在のこの学校の正式名称は佐世保市立吉井南小学校です。しかし、私の頃は吉井小学校と言っていました。私が卒業した小学校は、吉井小学校ですが、通学したのは吉井小学校福井分校です。卒業式の日だけこの学校へ行きました。当時の校舎は木造2階でした。
この校舎は昭和7年に完成したと学校のHPにはあります。当時から石垣は変わっていないようです。学校の敷地は山裾の細長いウナギの寝床みたいなところですから石垣も延々と続いています。今までに補修され、コンクリートを詰めた所も少しは見られますが、自然石を並べた見事な石垣です。
よく見たら、丸い自然石を丁寧に積み上げられていて、大きさも40~50cmとほぼ揃っています。この石はすぐ近くの佐々川の河原から運んだものでしょう。 付近の河原はポットホール公園として整備されていて、丸い石が数多くあります。石工の腕の良さもあったでしょうが、石運びには近くの住民の労力もかなりあったのではないでしょうか。
校舎の右となりに校庭がありますが、この石垣にはやや小ぶりの石が使われています。
現在の校舎は鉄筋4階建ての新しいもので、平成4年に完成したとHPに書かれています。
校門横には、今時珍しい二宮金次郎が薪を背負った石像があります。銅像なら戦時中に供出されてとっくに無くなっていたでしょうが、石だから残ったといえるでしょう。
この学校の思い出としては、6年生の1年間でしたが、卒業記念写真には58人写っていて、6年は2クラスあったのですから、分校といっても、大勢の子供で活気に満ちていました。我々の卒業後すぐに福井小学校として独立校になりますが、その5月には吉井北小学校と校名が変更されました。現在の児童数は全校で100人ほどですから、分校の時の1学年分もいません。本校も吉井小学校から吉井南小学校と変わっています。
卒業式の村川喜六校長の訓辞「踏まれても踏まれても雑草のように強く生きよの話」もなぜかよく覚えています。校長の名前も私の初任校で担任をしたとき、佐々中学校から来た生徒の内申書に校長村川喜六とあり再認識していました。
歴史的に吉井町は江戸時代は、佐々筋の吉田村、志佐筋の福井村でしたが、明治になり北松浦郡となり、明治22年に吉田村と福井村が合併して吉井村となっています。
次回は原爆で残った石を、記憶が新しいうちに臨時に入れます。