2015年11月30日月曜日

5.吉井小学校の石垣

吉井小学校の石垣(佐世保市吉井町)
 吉井小学校と書きましたが、現在のこの学校の正式名称は佐世保市立吉井南小学校です。しかし、私の頃は吉井小学校と言っていました。私が卒業した小学校は、吉井小学校ですが、通学したのは吉井小学校福井分校です。卒業式の日だけこの学校へ行きました。当時の校舎は木造2階でした。
 この校舎は昭和7年に完成したと学校のHPにはあります。当時から石垣は変わっていないようです。学校の敷地は山裾の細長いウナギの寝床みたいなところですから石垣も延々と続いています。今までに補修され、コンクリートを詰めた所も少しは見られますが、自然石を並べた見事な石垣です。

 よく見たら、丸い自然石を丁寧に積み上げられていて、大きさも40~50cmとほぼ揃っています。この石はすぐ近くの佐々川の河原から運んだものでしょう。 付近の河原はポットホール公園として整備されていて、丸い石が数多くあります。石工の腕の良さもあったでしょうが、石運びには近くの住民の労力もかなりあったのではないでしょうか。 
 校舎の右となりに校庭がありますが、この石垣にはやや小ぶりの石が使われています。
 現在の校舎は鉄筋4階建ての新しいもので、平成4年に完成したとHPに書かれています。 
 校門横には、今時珍しい二宮金次郎が薪を背負った石像があります。銅像なら戦時中に供出されてとっくに無くなっていたでしょうが、石だから残ったといえるでしょう。 
 この学校の思い出としては、6年生の1年間でしたが、卒業記念写真には58人写っていて、6年は2クラスあったのですから、分校といっても、大勢の子供で活気に満ちていました。我々の卒業後すぐに福井小学校として独立校になりますが、その5月には吉井北小学校と校名が変更されました。現在の児童数は全校で100人ほどですから、分校の時の1学年分もいません。本校も吉井小学校から吉井南小学校と変わっています。
 卒業式の村川喜六校長の訓辞「踏まれても踏まれても雑草のように強く生きよの話」もなぜかよく覚えています。校長の名前も私の初任校で担任をしたとき、佐々中学校から来た生徒の内申書に校長村川喜六とあり再認識していました。
 歴史的に吉井町は江戸時代は、佐々筋の田村、志佐筋の福村でしたが、明治になり北松浦郡となり、明治22年に吉田村と福井村が合併して吉井村となっています。
 
次回は原爆で残った石を、記憶が新しいうちに臨時に入れます。
 

 
 
 
 
 
 
 

2015年11月23日月曜日

4.浜野家の石垣

濱野家の石垣(佐々町)
  濱野治八(1864-1947)さんが、大正末か昭和初期に建てられた屋敷回りの石垣は丸い石を割って外面は平らに並べて、積み上げられている珍しいものです。屋敷の裏の道路は、江戸時代の平戸街道でアスファルト舗装ですが、昔の広さそのままです。この道は平戸街道ウォーキングでもガイドをしながら通っています。自然石をそのまま使った石垣は、時折見ますが、これだけ面をきれいに揃えたものはありません。皆さん感心して眺めていきます。
 正面から石垣を見ると丸いのによく収まっているのに驚かされます。これを造った石工の技能の高さがうかがえます。規模としてもかなりの大きさです。               
 
  これを上から見たら、丸い石を割っているのがよくわかります。この石は佐世保港外、黒島の横の無人島、伊島(いしま)から持ってきたと聞きました。この島の周りには、数年前までは良く船で魚釣りに行っていたので、海岸には丸い石ばかりあるのを見かけていました。無人島というのは現在のことで、昔は人が住んでいたかも知れません。というのも、船で横を通るとき畑跡と思われる所だろうと言いながら見ていました。黒島から手漕ぎの舟で畑を作りに来たとしても簡単に渡れるくらいのところですから、昔も無人島かも知れません。
 
 石垣の角は四角に割ったものが使われていますが、全体に調和がとれた美しいものです。 
 玄関への入り口は城の石垣のように直角に回らなければなりません。最近はここの門をくぐることはありませんが、佐々町へ引っ越した頃は「浜野医院」の看板が掛かっていました。子供が小さかったので、 濱野治八さんの息子さんが内科の老医師でしたが、よく連れて行っていました。待合室は畳の部屋ははっきり覚えていますが、診察室は板張りか畳か記憶がありません。中に入った印象は、病院というよりは古いお屋敷の座敷に上がるという感じでした。最初に建てられた時のままと思えました。今も変わらないのではないでしょうか。 
 この屋敷の道路を隔てた裏側は曹洞宗の古刹東光寺です。この寺の本尊は「薬師瑠璃光如来」という木像で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、平戸方の陣中で守り本尊として出かけ7年後に無事戻ってきています。 
 
 この寺の本堂は、浜野治八さんが一人で寄進されて、昭和18年に完成した現在のものです。この人は、若いときから小佐々の村長、佐々村会議員、県会議員 をしながら、北松一帯で炭鉱主もしていました。最後に手掛けた鹿町炭鉱(強粘結炭を産出)が大正9年にその鉱区権を当時300万円で八幡製鉄所に買収されて財を成しました。その金で自宅を子孫のために新築し、また、願いがかなったことでお寺も寄進したとのことです(佐々町郷土誌)。浜野家のお墓はこの東光寺の墓地にあり、治八さんの戒名は「北斗院殿東光如雷大居士」とあります。院殿・大居士の付いた戒名は殿様以外で初めて見ました。如雷というのは治八さんは書道達人でその号だそうです。
 
 本堂横の位牌堂には、奥の右側には歴代の住職の位牌が並んでいますが、左側には浜野家の位牌が特別に並べられています。その中でも、最上段に治八さんの位牌が一つあります。住職の話では、この位牌は前の住職が、ボロボロになっていたので新しく作り直されたそうです。昭和22年の品物は、極端に物資が不足していた時ですから、そんなこともあったのでしょう。位牌堂の特別扱いとは裏腹に、浜野家の墓は質素なもので、法名塔もなく、竿石に戒名などがさりげなく刻まれています。

 
  炭坑誌(前川雅夫編)によると「時の政友会代議士の中倉万次郎(佐世保軽便鉄道社長)は、この浜野の努力を気の毒に思いひそかに当時官営燃料探しをしとぃた八幡製鉄所に売り込んだら浜野も助かるだろうと時の長官白仁武に口添えしたので折柄強粘結炭探しに乗り出していたので日鉄買収となり茲に当時の金で300万円という金がころがり込んだ訳である。当時、反対党の憲政会がこれは政治的問題であるとて横槍を入れたが、くつがえすことは出来なかった」とあります。
 佐世保(軽便)鉄道の株主にも浜野治八さんは名を連ねています。
 
次回は吉井南小学校の石垣です
 
 
 
 
 
 
 

2015年11月16日月曜日

3.佐世保市中里地区の宝篋印塔

(1)新豊寺(しんぽうじ)跡
 中里駅裏のお堂のところに、古い石仏、石碑、六地蔵などが寄せ集められています。この寺は佐世保では最も古い寺かもしれません。というのも、宗家松浦が今福から相浦へ移った頃、初めに建てられた寺といわれています。宝篋印塔の小型のもの2基が石垣の上に並んでいます。
 

  大型のものは正面からは写真に収められませんが、これら3基は正体のもので、いずれも緑泥片岩製ですが、刻字が読めないので、建造年も誰の墓か供養塔かもわかりません。


  
 (2)東漸寺墓地の宝篋印塔
 こちらのものは、宗家松浦の13代目の当主、源盛(さかり)の墓と良くわかります。宗家松浦家とは平戸松浦家(こちらは本家と言っている)と祖先を同じくしていて、戦国時代に今福から相浦に移り住んでいたが、平戸松浦に攻められて、平戸の軍門に下っています。江戸時代には、幕府武州葛飾郡内で、3000石の旗本として子孫は明治まで続いています。

 
   基礎の刻字は現在はっきりしませんが、佐世保市の文化財に指定された頃は読めています。 

     当時、拓本に採った文字を紹介します。源盛、前丹州太守など記され、建造年が応仁元年(1467)とありますから、史実とも合致します。宗家松浦家の系図では盛の生年は応永29年(1422)で没年は応仁元年です。

 

 
     墓石 や供養塔ばかり続きましたが、これらのものは非常に数多くありますので、次回からは他のものにします。しばらくは石垣の気に入ったものを紹介します。
 
 

 
 
 
 
 
 

2015年11月9日月曜日

2.佐世保市小佐々の石塔群

小佐々の石塔群  
 西海国立公園の九十九島に面した小佐々には、西彼杵産の緑泥片岩で造られた古い石塔が数多く残っています。海の交易が昔から行われていたということでしょう。小佐々郷土館にはこの中でも寄せ集めではない正体のものが4基保存、展示されています。
 右2基は宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれるもので、建造年が読み取れます。右端から、この宝篋印塔は鎮信鳥居を探し回っていた時から、教えてもらっている、地方史家の吉永等さんが小佐々町平原免沖田山東側山麓の旧墓地で1997年9月に発見されたものです。なぜか発見者の名前は記されていません。
基礎にある刻字には、応仁2年(1468)の文字がはっきり読み取れます。発見された場所は寺があったところではなく、当時、小佐々を治めていた小佐々氏の有力者の墓ではなかろうかと考えられています。
 
 この石材は緑泥片岩と呼ばれるもので、古いものでも文字が良く読めます。土ぼこりを落としたら、応仁の文字が見え、その時は身震いがしたと発見当時のことを昨日のことのように吉永さんは話されています。
 
 宝篋印塔の部分名称について
 右から2番目の宝篋印塔は応永31年(1424)の銘がはっきり見えます。「前住当山月堂庵主」と読めるので、お坊さんの墓と見ていいのではないでしょうか。
小佐々の永徳寺の墓地にあったものです。左2つは五輪塔で、14世紀、南北朝時代のものと説明文がついています。
 
 

いずれも、緑泥片岩製の完全なものです。小佐々の古刹永徳寺の墓地にあったものです。小佐々のこの頃の歴史がはっきりしないのに、これだけのものが、この田舎に現存することは非常に珍しいのではないでしょうか。
 現在の永徳寺の墓跡には寄せ集められた墓石が雑然と置かれています。緑泥片岩製のものが、不完全なものを含めて200基ほど残っているのは、長崎県内ではここだけです。
 
次回は佐世保市中里地区の宝篋印塔について書きます
 
 
 
 
 
 

2015年11月2日月曜日

1.長崎県最古の五輪塔

はじめに
  鳥居や六地蔵塔をブログに書き、その他にも多くの石碑、墓石、石橋、石垣、棚田など石造りの建造物を見て回っていると、コンクリートとは違った何かしら暖かみを感じます。年月の経過により、丸みをおび苔むしていても、その時代を偲ばせてくれます。
  特に、九州には古くから石の文化が根付いていたようです。これらの埋もれた、人々の生活の中で築き上げられたものを長崎県北部を中心に古いものから新しいものまで見つめていきます。

長崎県最古の五輪塔
 
五輪塔部分の名称について

 (この図は諫早市の文化財、諫早市教育委員会編集発行のものを使わせてこらいました)
 
 最初に取り上げたのは、長崎県東彼杵郡川棚町の資料館に現在は保存展示されている「永仁五輪塔」と呼ばれているものです。文字通り永仁5年(1297)の銘が刻まれています。建造年がはっきり分かるものとしては、長崎県では最も古いものです。
 この石材は緑泥片岩(りょくでいへんがん)と呼ばれるもので、長崎県の西彼半島、西海市周辺で古くから産出していて、船による交易で、長崎県の沿岸部にかなり現存するものがあります。この石の特質は、やわらかくて加工し易いにもかかわらず、文字を刻んだら非常にシャープな線がくずれずに残ります。次の拓本の文字をご覧ください。
 建造者の「比丘尼法阿」の名前もよく分かりますがこの人は源長盛の後家さんですが、源長盛のことは何も分かっていません。しかし、源姓ということは平戸の松浦家の祖松浦党に何かしら関係があるのではなかろうかと考えたくなります。五輪塔は墓や生前供養のため造られたものが多いのですが、この五輪塔は川棚町上組郷の七浄寺跡から出土したもので、比丘尼法阿さんが生前供養のため建てたものと思われます。今の七浄寺跡には寄せ集められた石塔が雑然とあり、近くには河原(こうばる)城跡の遺跡もあります。
七浄寺跡
 長崎県の石碑類で最も古いのが、ここのもので1297年の鎌倉時代ですから、不思議な感じもします。対馬や壱岐は古くから開けていたところで、長崎県の城跡で古いものは対馬にあります。大陸から文明文化が対馬、壱岐そして九州へと伝わってきた歴史を考えると特に、対馬にはもっと古いものがあって良さそうですが、現存しないということは、腕の良い石工が居なかったのではなかろうかと思ったりもします。