2016年3月28日月曜日

22.亀扶(2/5)心月寺跡

心月寺跡の亀扶(佐世保市相浦町)
 心月寺は戦国時代、相浦松浦と平戸松浦が骨肉の争いの末、平戸松浦が相浦を軍門に下し、宗家松浦(相浦)の宗金親の跡継ぎに、平戸松浦隆信の三男九郎親を養子に入れることでようやく決着しました。しかし、収まらないのが相浦の家臣たち、東一党の東甚助は、九郎親といさかいから刺し違えて天正元年(1574)亡くなっています。宗金親は九郎親の菩提を弔うため、洪徳寺の右隣の愛宕山の山麓に心月寺を建てたと言われています。しかし、明治の初めに、洪徳寺に併合され廃寺となり、現在は荒れるに任せているといった状態です。
 以前は立派な庭園でその池の中にある六地蔵塔の台座がこの亀扶です。拡大してみると
 亀の彫刻はかなり粗削りです。とにかく竹やぶに囲まれ、ひどいものですが、池に水をためても亀の頭と甲羅は見えていたでしょう。

東一党と伝育坊について
 平戸方の佐々の前線基地だった、東光寺の僧兵、伝育坊(でんいくぼう)は、最近佐々町のマスコットキャラクターになりつつあります。佐々町郷土誌には伝育坊のことを「身長7尺(210cm)、眼三角にして、胸手足に至るまで毛深く・・・3尺余の大刀をはき、筋金渡したる樫の木の棒をつき立ちたり」とあり、3,4人分の力持ちで半坂合戦では縦横無尽の活躍が記されています。しかし、その最後は、東一党の弓により射貫かれて絶命しています。佐々町に児童公園が完成し、その愛称を募集したところ、郷土の歴史を学んだ小学生の案で、「でんでんパーク」と名づけられました。この公園には伝育坊ろモチーフにした遊具も造られています。

次回は平戸雄香寺墓地の亀扶です
 



2016年3月21日月曜日

21.亀扶(1/5)一六神社

亀扶(きふ)とは 
 記念碑や石塔を建てるとき、台石に亀の形に刻んだものがたまにあります。長崎県北一帯で、5基見つけたので紹介します。

一六(いちろく)神社の亀扶(平戸市田平町) 

 写真をよく見てください。自然石の台座の上にかわいらしい亀の恰好をした石があり、その上に牡蠣殻が付いた手洗水鉢らしいものが載っています。本来このようなものだったのかはなはだ疑問を感じます。

 一六神社の鳥居のすぐ横にあります。はじめは何かの記念碑の台座だったのかも知れません。一六海岸は漁村の集落ですから、海岸にちょうど良い石があったので、手洗水鉢にちょうどいいと載せたのかも知れません。

一六海岸の思い出
 小学生の頃、江迎町にいて、学校から海水浴に何度か行きました。砂浜があり広くはないけど、小学生には手ごろなところでした。子供が生まれて海水浴に連れて行ったこともありましたが、盆過ぎだったので、他の客はいなくて、プライベートビーチを貸し切った感じでした。シャワーの設備もなく、集落の民家の井戸水を使わせてもらいましたが、あまりにもその水が冷たくて、足元に少し掛けただけでした。

 この海岸に行くには、昔、国鉄松浦線の時は、田平駅で降りて歩いて行っていました。現在、第3セクターの松浦鉄道になり、ディーゼルカーが走るようになり、駅が増設されました。現在の駅名は「東田平」です。「一六」とすれば良いのにと思います。最近もこの海岸が海水浴客で賑わっているという話は聞きません。

次回は佐世保市相浦の心月寺跡の亀扶です

2016年3月14日月曜日

20.謎のウハキュウ文字

謎のウハキュウ文字
 古い墓地を見て回っているとき、吉永等さんからこの文字を教えてもらいました。平戸の墓地ではかなりあります。ここでは、相浦の母ケ浦(ほうがうら)の墓地のものを紹介します。

 少しわかりにくいので、拓本をとってみました。一番上の文字のことです。墓石の左側には享和3年(1803)、江戸時代後半の年号があり、砂岩のため5番目の文字は欠落していますが、戒名は「徳岩禅(士)」でしょう。
 

 ウ(烏、鳥)ハ(八)キュウ(臼、旧)など、昔の文字は音が同じならいろんな文字が使われています。ここでは、烏とハと旧の文字が組み合わされています。一般的には「」の文字が使われているものが多いようです。この文字は辞書にもなくパソコンでも出てきません。文字を作り単語登録をしています。平戸の墓地では、あちこちで見かけます。そのほとんどが、禅宗は曹洞宗の寺院、関係者の墓地の墓石や供養塔の最上部に刻まれています。曹洞宗の寺の坊さんに聞いても分からないというし、横浜に行ったとき総本山の総持寺の坊さんにも聞いてみたけど知らないとしか言いませんでした。
 そこで、曹洞宗の公式サイトに問い合わせたら次のような回答が10日ばかり経ってから来ましたので、少し長いけど紹介します。

拝復 井上順一 様

この度は、曹洞禅ネットをご利用いただき、ありがとうございます。
また、ご質問も頂戴しておりましたが、当方は公式サイトという関係上、いただいたご質問に対し、会議を経た上でご返答しておりますので、若干の時間を要しますことをご理解いただけましたら幸いです。

頂戴したご質問ですが、「烏 八 臼」についてだと理解しましたので、以下にお答えいたします。

確かに、こちらが曹洞宗の墓石や供養塔に書かれる場合があったようですけれども、曹洞宗宗務庁でもこれ自体について調査研究を重ねてきたわけではなく、よって、あくまでもご紹介のみですが、宮崎県高千穂町コミュニティーセンターのサイトに、次のページがございます。

●(資料紹介)高千穂町の「烏八臼(うはっきゅう)」資料2例
http://www.komisen.net/Uhakkyuu.htm

そこで、こちらのサイト以上の見解を、我々は持っておりませんので、こちらに説明を譲ります。また、挙げられている参考資料を見てみたいとも思いましたが、容易に入手できる類の文献ではなく、もし長崎にお住まいとのことであれば、井上様御自身で高千穂町にお問い合わせいただく方が早いと思いますが、如何でしょうか。

なお、上記サイトに指摘がございます「鵮」字については、強い関心を抱いておりますが、これについても、現段階で申し上げられるほどの調査研究は進んでおりませんので、大変に恐縮ですが、お答えできるのは、以上の内容でございます。

今後とも、禅ネットをご利用くださいますようお願い申し上げ、失礼いたします。

    合掌

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曹洞宗公式サイト「曹洞禅ネット」
                         曹洞宗宗務庁 広報係

紹介されたアドレスには

(資料紹介)高千穂町の「烏八臼(うはっきゅう)」資料2例



烏八臼(うはっきゅう)
烏八臼は、室町時代末から江戸時代後期の墓標等に見られ、曹洞宗や浄土宗関係の墓地に多く見られます。
字の意味からいろいろな解釈が考えられています。
(1)鳥の意味。
(2)鳥を追うサギに似た「■(=鳥へん+鯢のつくり)」の変化したもので、この鳥名を墓標に彫る事で供え物に近づく鳥を追払う。
(3)日月の意味。
(4)優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)。
(5)梵字合字の崩れ。
(6)吽(うん)の合字。
(7)大迦葉が成仏の印として弟子に授けた字形。
(8)烏八臼の臼のきゅうは「き」すなわち「帰」と八の「き八」に臼の「う」を加え「き九」すなわち帰空を表す。
(9)カンタンと読み「ついばむ」の意味。昔、屍(しかばね)を林の中に捨て、鳥についばませて空に帰るよう墓碑の頭に用いた。
有力な説は、
「(10)■(=ク+日へんに鳥)(かん、たん)の変形。この一字は「随求経」の「随求阿羅尼小呪」にも「俺佐羅野拏瑟■(=ク+日へんに鳥)布羅耶莎賀(オンサラヤドシツタンフラヤソワカ)」とあり、本来、瑟■(=ク+日へんに鳥)の2字をもって発音し、滅罪成就、成究の意味を表す。」と言われています。
天草や人吉などでは、キリシタン関係として考えてある論文も数多く見られます。
高千穂町の場合、2例とも曹洞宗龍泉寺の隣接地に分布しており、また1例は墓以外の庚申塔でもあることから、多少意味合いは異なるかもしれませんが、
何らかの願いを込めたお目出度い文字として曹洞宗関係の僧侶の知識が働いて作られたものと思われます。

§1.上野養老禅庵の烏八臼
上野の龍泉寺の裏山「玄武城跡」の山麓にあったとされる養老禅庵の敷地内にあります。砂防ダム建設工事に伴い移設することになり、宮崎県文化課が試掘を行いましたが、石碑に伴う墓壙などは見られませんでした。
「○八臼烏洞月妙桂禅定尼」「??三甲午天十一月日」「老子敬白」と彫られています。「??三甲午天」は、玄武城などの年代から考えて、「天文3年(1534)」と「文禄3年(1594)」が考えられます。高さ106cm、幅56cm、厚さ21cmの尖頭舟形の板碑です。八臼烏は縦に重なる形です。

§2.上野龍泉寺境内の烏八臼庚申塔
上野の龍泉寺の境内に建っています。奉待タイプの庚申塔に烏八臼が見られます。
「天明八戊申」「八臼烏奉松庚申所願成就」「十一月吉日」とあり、高さ93cm、幅43cm、厚さ16cmの板碑です。天明8年は1788年です。八臼烏は八+臼へんにつくりが烏の形です。

【参考文献】
磯貝長吉「墓標文字烏八臼に憑れて」『郷土よこはま56・57号』横浜市図書館、1970年。15~26頁。
山上茂樹「山上茂樹翁ききがきノート」『多摩のあゆみ7号』(財)たましん地域文化財団、1977年5月。76~77頁。
豊永鈴蘭「肥後相良今昔史誌」人吉新聞社、1979年。201~202頁。
坂口雅柳「唐梵字銘碑考」『肥後考古第2号』肥後考古学会、1982年。17~35頁。
北郷泰道「烏八臼~使用下限を示す新資料について~」『宮崎考古第8号』、1982年。21~23頁。
五木村総合学術調査団「五木村学術調査~人文編~」155頁。
「日向民俗第46・47号」烏八臼特集、日向民俗学会、1994年。
人吉カトリック教会「人吉にキリシタンがいた~新人吉キリシタン考~」1994年。115~119頁。
濱名志松「九州キリシタン新風土記」葦書房、1998年。451~455頁。
延岡郷土史料婦人学級OB会ひみこ「10周年記念誌~延岡の石塔を訪ねて~」(上巻)、1996年。89~90頁。
川島恂二「■(=八+臼へんに烏)(ハツ・キュウ・ウ)の意味」有明の歴史と風土第20号』有明の歴史を語る会、1998年。2~5頁。
緒方俊輔「烏八臼へのロマン」宮崎日日新聞地域発信2000年1月21日。
緒方俊輔「また発見『烏八臼』」宮崎日日新聞地域発信2000年3月12日。
            
上野養老禅庵の烏八臼の板碑             上野龍泉寺境内の烏八臼の庚申塔
※ネットに書いていますが、個人の持ち物ですので、見に来られたい場合は、事前に御来町の日時などをご連絡いただくと幸いです。勝手に来られても、観光地でありませんので、地元の方から「どこから来た人ですか?」など言われる可能性があります。

とあり、結局何もわかりませんでした。曹洞宗と言えば総本山が永平寺(福井県永平寺町)と総持寺(横浜市鶴見区)の二つありややこしそうです。

次回からは珍しい、亀扶を紹介します。







2016年3月7日月曜日

19.佐々町の棚田

地元、佐々町の棚田(棚田百選ではないけど)
 佐々町には有史以前から人類が住んでいた痕跡があります。それは、狸山にある支石墓群(ドルメン)です。朝鮮半島で見られるもので、発掘調査も行われ、内から勾玉も出てきています。その頃から稲作が行われていたのでしょう。
 山に取り囲まれた地形のところで、歴史的には、かろうじて977年(平安時代)に山頂にあった神社の記録が残っているのがありますが、実質的には戦国時代からとなります。
 佐々町を縦断している佐々川は長崎県では最大最長の川です。この川の水利を利用して、田んぼが広げられてきました。戦国時代の領主は農地を拡大するために苦心したようです。江戸時代になると浅瀬の海岸を干拓してほぼ現在の土地が出来上がり、川の水面より低い田んぼもあるようです。大雨の時、大型のポンプでくみ出す施設は拡大されてきています。干拓以外の農地は、いわゆる中山間地で、ほとんどが棚田で占められています。都市化の波で宅地となった棚田もかなりありますが、無数の棚田が町内には残っていますので紹介します。

1.木場の棚田
 佐々川の支流、木場川に沿って多くの棚田があります。佐世保市に近いこともあって、新興住宅地もいくらかできましたが、多数の棚田があちこちと点在しています。木場川上流付近です。


 高台にも石積の棚田が造られ、きちんと整備されたところが多く見られます。溜池も多く、渇水になれば佐々川の水を溜池に組み上げる設備ができています。150mもポンプアップしているため大変な工事だったと関係者の話も聞きました。


 高台の見晴らしの良い所には、「農栄碑」と書かれた大きな石の記念碑が目立ちます。最近は稲作以外には和牛生産農家も増えてきています。 

2.江里の棚田
 この棚田には溜池がほとんどありません。山肌から湧水が出ていて、年中枯れることがありません。

 写真を撮っていたら、横や後ろにも狭いけど棚田があります。



3.志方の棚田
 志方という地名は、戦国時代の領主名によるものです。中段には居城跡というか屋敷跡なども残っていて、近くには千人堂とか千人塚という地名も残り、戦国時代の名残をとどめています。このあたりに狭いながらも棚田が見られます。

 志方の下方は農地の整備が進み、石垣による棚田は姿を消しています。

4.大茂の棚田
 佐々町の地域は丸い形をしていて、佐々町に降った雨は佐々川に流れ込むのが大部分ですが、大茂の水は、江迎に流れるといわれ山も深いものがあります。小さい棚田が点在しています。この棚田の付近には、以前エビネランの自生したものがあり、ブームになった頃はこの付近を探して回りました。

 狭くても構造改善事業が行われたところもあり、りっぱな田んぼになったところもあり、道路の整備も進み昔ほど山奥という感じがしなくなりました。

5.栗林の棚田
 この付近の農地は日当たりもよく、宅地化も進んでいます。写真のところは、改善事業で広い田んぼになっていますが、石垣部分もいくらか残されています。

6.神田(こうだ)の棚田
 この地区には、大手の炭鉱が進出してきてずいぶん賑わったのですが、今では農業主体のところです。広い農地はほとんど改善されていますが、昔ながらの石垣の棚田やその荒れた部分なども見えます。
 
 棚田は佐々に限らず、長崎県内どこにでもあります。とても紹介しきれません。広い所を写真に収めるには無理があり、ドローンでも使えば良さそうです。
 今回の写真は、冬枯れのさびしいものでしたので、田植え後や夏の緑濃いものや、秋の収穫時のものも追加してみたいと思っています。忘れなかったら良いのですが。


次回は「謎のウハキュウ文字」です