2015年12月28日月曜日

9.安政6年の墓碑から

安政6年の墓碑から 
 今年5月の連休に大阪の中村青年が訪ねて見えました。全く知らない人でしたが、熱心に自分の祖先を調べている人で、私が以前出していた「口石金比羅さん物語」の中で口石に明治時代にあった「第十三高等小学校」の学籍簿から、何か手掛かりはなかろうかとフェイスブックでコンタクトがあり、メールや電話でも話すようになりました。
 最初に一緒に行った所が、佐世保市小佐々町長浦の山の中の小さな墓地です。石は砂岩です。
 

  「一燈禪光信士」と正面に戒名があり、
 右側面には「安政六未年
 

 左側面には「五月十四日」とあります。安政6年(1859)とは、この年に安政の大獄で、吉田松陰が処刑された年でもあり、明治に10年とはない江戸時代の終わりです。
 中村青年は、ここ数年、夏休みを利用して、小佐々・佐々近辺を訪ね歩いていて、6代前の祖先の名前まで戸籍から分かっています。この墓は戒名がはっきりした禅宗の人ですが、中村家も4代前~6代前の先祖の菩提寺は禅宗は曹洞宗の相浦にある「洪徳寺」と調べ出したそうです。
 次に洪徳寺に行き当時の過去帳を見せてもらいました。この寺には江戸時代の過去帳が良く残っています。2人でこの時代のところを入念に調べましたが、ついにこの戒名は見つかりませんでした。小佐々の永徳寺(臨済宗)、佐々の東光寺(曹洞宗)にも聞きましたが、この戒名は見当たらないとのことでした。したがって、この墓の主は誰であるか分かりません。周りにはこの他に2~3基、墓の跡があります。
 
 ここの墓地のことを法務局で調べた地図にある「小佐々町小坂免815番地」、土地台帳の所有者「中村末吉(5代前の祖先)」の墓地であると中村青年は考え、7代前の先祖の墓と思っていたのです。実際にはこの墓地の地番は819番地で、直線距離にして、200m少し離れているところです。洪徳寺や他の寺の過去帳にも出てこないので、1泊2日の短いルーツ調べから大阪へ帰っていきました。この土地は、佐世保の相浦に近い所で、昔の交通機関では船が便利なところで、相浦の経済圏という所でしょう。そんなわけで、この墓地から直線で150mくらい離れたところに、六角石柱の一字一石塔があり、これを建てた坊さん、竹林四世の名前が見えます。竹林寺は相浦に江戸時代の前の戦国時代に建てられた寺ですから、石には年号が読めませんが、江戸初期のものでしょう。
 
 彼の今回の旅行で収穫があったのは、私が彼が来る前に佐々小学校の金庫の中の高等小学校の学籍簿の写真の中に、末吉の4女「中村スエ」を見つけたことです。
 
 学籍簿ではスエは退学しています。住所は小佐々村ですが、佐々村に寄留しています。
 他には彼が2日目の朝、雨の中を散歩して、林田家(小佐々町)の墓地で、末吉の妻の「ヨシ」の父親「林田五平次」の墓地を見つけたことです。
 
 法名塔の右端にあり、文久2年(参勤交代廃止令が出た年)に亡くなられています。
 
 中村青年の5代前の先祖、「末吉」とその長男「福太郎」については、小佐々町郷土史と炭坑誌(前川雅夫編)によると、末吉は小佐々の大瀬(おおぜ)で炭鉱を始めたとあります。大瀬の炭鉱に関しては、江戸時代末期から、最初は露出していた炭層もあり盛んに採掘されていて、炭層としては「大瀬5尺層」として北松浦郡の炭鉱の中でも最大級です。
 平戸にある松浦史料博物館の学芸員の話によると、江戸末期には、鯨に代わって石炭が平戸藩の稼ぎ頭だったそうです。 ここの石炭は長瀬浦から船で積み出されており、瀬戸内海の塩田で使われていたとのことです。近くで遭難して亡くなった人の墓が海岸に10基ほどありますが、無縁仏といったものです。その中にいかにもヤマ師といった戒名があったので紹介します。
 「釋探石観山信士」とありますから、石炭を探して山を見て回っていた浄土真宗の人ではないでしょうか。
 
 末吉の息子福太郎は、佐世保の日宇で炭鉱を始めたと炭坑誌に記述があります。また、洪徳寺の過去帳では、この親子は佐々村の吉の浦で亡くなっています。現在の佐々町芳の浦には十数年前まで、中村家の墓がありました。
 墓があったと、過去形で書くのは、十数年前に石塔は小さく砕いて、一輪車で運び出していたと、隣の墓地の人から聞きました。誰がどんな目的で、こんなことをしたのか全く分からないそうです。現在は更地になって何もありません。
 中村家の一族は、佐々の後、五島・雲仙・鹿児島などへも行き、現在は大阪だそうですが、傍系の人で佐々に住んでいる人もおられるそうです。そんな訳で、5月以降、私は中村家のルーツ探しの佐々出張所みたいにして、いろんな資料を探して、佐世保法務局利用の仕方も分かりました。

次回、来年からは棚田の石垣について書き始めます。



2015年12月21日月曜日

8.冬越峠の石垣

冬越(ふゆごし)峠の石垣
 現在はどちらも佐世保市内になっていますが、相浦谷の柚木と佐々谷の世知原をつなぐ道はここだけでした。江戸時代からあったと地元の人は言っています。標高は400mぐらいでしょう。


冬越峠という呼び名も気に入りました。冬になると世知原から下ってきた車には雪が積もっていて雪深い所という印象が昔からありました。

 




  峠の付近は、堀切になっていて道幅はおよそ4.5mですが、石垣の高さは、高い所で5mほどあります。積み方は野面(のづら)積みというのでしょう、丸いのや四角、尖ったものなど自然石の組み合わせです。

 中央に四角の大きない石があり、そこには大正15年と彫られています。その頃、道路が整備されたのでしょう。峠の両側、柚木も世知原もその頃は炭鉱が盛んな時期です。現在はアスファルト舗装がされていますが、木の葉が道路の端には積もっていて、周りの木も茂っていて夏でも木漏れ日がさす涼しい所です。世知原側には、あじさいロードが整備され、6月には大輪の花を咲かせています。その先には山暖簾(やまのれん)という温泉施設ができました。佐世保市に合併してからは黒川紀章設計ということで人気が出てお客を集めています。佐世保の奥座敷とか天空の宿などとも呼ばれています。
 
 
 
次回は安政6年の墓碑です
 
 
 
 
 
 
 


2015年12月14日月曜日

7.古い民家の石垣

(1)佐世保市吉井町福井の民家
 ここは江戸時代、志佐筋の福井村ですが、北側に峠を下ると松浦市に出ます。峠の頂上に近いところにこの石垣があります。

城の石垣を思わせるものですが、この写真の左側に家屋は建てられています。現在は農家ですが、昔は士族の家かも知れません。平戸藩では、藩堺には士族を配置していて、普段には農業をしており家の近くに墓もあり、屋敷墓と呼ばれるものもよくあります。
この石垣の建てられた目的は、防風のためと思われますが、他にも目的があったのかも知れませんが、現在住んでいる人に聞いても、いつ頃、何のための石垣かわからないとのことでした。
石垣の縁の部分は四角な石を使ってありますが、中ほどは丸いものや小さな石も使われていて、野面積みの様相をしています。単に風よけだけの目的なら、防風林を植えると良さそうなものでしょう。

(2)佐世保市世知原町開作の民家 
 世知原町の開作地区は、長崎県北最高峰の国見山(777m)のすぐ麓です。不便な山奥を文字通り開墾したという所で、平家の落人伝説が残っています。正月を迎えても、門松など目立つことは今も、差し控えているとのことです。そこに石垣がありました。
 ここには、少し前までは、平屋の住宅があり、その壁となっていたそうです。現在は車庫がありますが使われてはいないようです。
すぐ横に、バス停があり「開作公民館前」となっています。
横の休耕田にはコスモスが満開でした。
世知原地区には、アーチの石橋も数多くあり、石の文化がいくつも残っているところです。
(1)の福井村と同じく世知原村も江戸時代には、志佐筋の村でした。

次回は冬越峠の石垣です

2015年12月7日月曜日

6.長崎原爆で残った石

長崎原爆で残った石
 長崎大学医学部構内の会合に参加したとき、本館横にモニュメントがあり、

その横に、このL字形をした花崗岩を加工したものがありました。説明によると、旧制長崎医大の大講堂の礎石の一つであると書かれています。

さらに、同じ医学部の敷地内ですが、坂道を2~300m上ったところに、「グビロが丘」と表示されていたので登ってみたら


 
 
慰霊碑がありました。これまた花崗岩で、前面は磨かれてきれいにしてありました。慰霊碑の上の部分には柱をはめ込むための「ホゾ」があります。説明では、大講堂の柱ということです。その石を慰霊碑として長崎が原爆で被災してから、2年後に建てられています。
この碑の左側面には次の文字が刻まれています。
  「西暦1945年8月9日11時5分
     850余名のわが師わが友平和の
      先駆者としてこの丘に散りたまひぬ
    1947年10月浦上復帰の日
      長崎医科大学職員学生一同
          (文中の数字は漢字表記です) 
ということは、まだこの頃はまだ旧制大学のままだったのですね。
旧正門という看板を見たので、行ってみたら
ありました。多くの石で造られた高さ2m以上の一対の門です。左側が長崎医科大学とあり、右側には「長崎医科大学付属薬学専門部」とあります。右側は色が黒ずんではいますが、まっすぐに立っています。

しかし、左側のは5~10度くらい傾いています。囲いがしてあり、説明の石柱には「原爆の爆風の物凄さを今尚ここに見る」と書かれています。

長崎大学医学部は、浦上地区ですから原爆の直撃を受けています。浦上天主堂や、被爆した永井博士、石では片足鳥居などは有名なので知っていましたが、医学部内では木材やコンクリートは全滅してわずかにこれらの石が残ったそうです。
なお、「グビロが丘」のグビロとは虞美人草のことだそうですが、ヒナゲシとかポピーと言ったほうが分かりやすいですね。グビロが丘の慰霊碑の前辺りには虞美人草の小さな新芽が花壇に並んでいました。

次回は民家の石垣です

2015年11月30日月曜日

5.吉井小学校の石垣

吉井小学校の石垣(佐世保市吉井町)
 吉井小学校と書きましたが、現在のこの学校の正式名称は佐世保市立吉井南小学校です。しかし、私の頃は吉井小学校と言っていました。私が卒業した小学校は、吉井小学校ですが、通学したのは吉井小学校福井分校です。卒業式の日だけこの学校へ行きました。当時の校舎は木造2階でした。
 この校舎は昭和7年に完成したと学校のHPにはあります。当時から石垣は変わっていないようです。学校の敷地は山裾の細長いウナギの寝床みたいなところですから石垣も延々と続いています。今までに補修され、コンクリートを詰めた所も少しは見られますが、自然石を並べた見事な石垣です。

 よく見たら、丸い自然石を丁寧に積み上げられていて、大きさも40~50cmとほぼ揃っています。この石はすぐ近くの佐々川の河原から運んだものでしょう。 付近の河原はポットホール公園として整備されていて、丸い石が数多くあります。石工の腕の良さもあったでしょうが、石運びには近くの住民の労力もかなりあったのではないでしょうか。 
 校舎の右となりに校庭がありますが、この石垣にはやや小ぶりの石が使われています。
 現在の校舎は鉄筋4階建ての新しいもので、平成4年に完成したとHPに書かれています。 
 校門横には、今時珍しい二宮金次郎が薪を背負った石像があります。銅像なら戦時中に供出されてとっくに無くなっていたでしょうが、石だから残ったといえるでしょう。 
 この学校の思い出としては、6年生の1年間でしたが、卒業記念写真には58人写っていて、6年は2クラスあったのですから、分校といっても、大勢の子供で活気に満ちていました。我々の卒業後すぐに福井小学校として独立校になりますが、その5月には吉井北小学校と校名が変更されました。現在の児童数は全校で100人ほどですから、分校の時の1学年分もいません。本校も吉井小学校から吉井南小学校と変わっています。
 卒業式の村川喜六校長の訓辞「踏まれても踏まれても雑草のように強く生きよの話」もなぜかよく覚えています。校長の名前も私の初任校で担任をしたとき、佐々中学校から来た生徒の内申書に校長村川喜六とあり再認識していました。
 歴史的に吉井町は江戸時代は、佐々筋の田村、志佐筋の福村でしたが、明治になり北松浦郡となり、明治22年に吉田村と福井村が合併して吉井村となっています。
 
次回は原爆で残った石を、記憶が新しいうちに臨時に入れます。
 

 
 
 
 
 
 
 

2015年11月23日月曜日

4.浜野家の石垣

濱野家の石垣(佐々町)
  濱野治八(1864-1947)さんが、大正末か昭和初期に建てられた屋敷回りの石垣は丸い石を割って外面は平らに並べて、積み上げられている珍しいものです。屋敷の裏の道路は、江戸時代の平戸街道でアスファルト舗装ですが、昔の広さそのままです。この道は平戸街道ウォーキングでもガイドをしながら通っています。自然石をそのまま使った石垣は、時折見ますが、これだけ面をきれいに揃えたものはありません。皆さん感心して眺めていきます。
 正面から石垣を見ると丸いのによく収まっているのに驚かされます。これを造った石工の技能の高さがうかがえます。規模としてもかなりの大きさです。               
 
  これを上から見たら、丸い石を割っているのがよくわかります。この石は佐世保港外、黒島の横の無人島、伊島(いしま)から持ってきたと聞きました。この島の周りには、数年前までは良く船で魚釣りに行っていたので、海岸には丸い石ばかりあるのを見かけていました。無人島というのは現在のことで、昔は人が住んでいたかも知れません。というのも、船で横を通るとき畑跡と思われる所だろうと言いながら見ていました。黒島から手漕ぎの舟で畑を作りに来たとしても簡単に渡れるくらいのところですから、昔も無人島かも知れません。
 
 石垣の角は四角に割ったものが使われていますが、全体に調和がとれた美しいものです。 
 玄関への入り口は城の石垣のように直角に回らなければなりません。最近はここの門をくぐることはありませんが、佐々町へ引っ越した頃は「浜野医院」の看板が掛かっていました。子供が小さかったので、 濱野治八さんの息子さんが内科の老医師でしたが、よく連れて行っていました。待合室は畳の部屋ははっきり覚えていますが、診察室は板張りか畳か記憶がありません。中に入った印象は、病院というよりは古いお屋敷の座敷に上がるという感じでした。最初に建てられた時のままと思えました。今も変わらないのではないでしょうか。 
 この屋敷の道路を隔てた裏側は曹洞宗の古刹東光寺です。この寺の本尊は「薬師瑠璃光如来」という木像で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、平戸方の陣中で守り本尊として出かけ7年後に無事戻ってきています。 
 
 この寺の本堂は、浜野治八さんが一人で寄進されて、昭和18年に完成した現在のものです。この人は、若いときから小佐々の村長、佐々村会議員、県会議員 をしながら、北松一帯で炭鉱主もしていました。最後に手掛けた鹿町炭鉱(強粘結炭を産出)が大正9年にその鉱区権を当時300万円で八幡製鉄所に買収されて財を成しました。その金で自宅を子孫のために新築し、また、願いがかなったことでお寺も寄進したとのことです(佐々町郷土誌)。浜野家のお墓はこの東光寺の墓地にあり、治八さんの戒名は「北斗院殿東光如雷大居士」とあります。院殿・大居士の付いた戒名は殿様以外で初めて見ました。如雷というのは治八さんは書道達人でその号だそうです。
 
 本堂横の位牌堂には、奥の右側には歴代の住職の位牌が並んでいますが、左側には浜野家の位牌が特別に並べられています。その中でも、最上段に治八さんの位牌が一つあります。住職の話では、この位牌は前の住職が、ボロボロになっていたので新しく作り直されたそうです。昭和22年の品物は、極端に物資が不足していた時ですから、そんなこともあったのでしょう。位牌堂の特別扱いとは裏腹に、浜野家の墓は質素なもので、法名塔もなく、竿石に戒名などがさりげなく刻まれています。

 
  炭坑誌(前川雅夫編)によると「時の政友会代議士の中倉万次郎(佐世保軽便鉄道社長)は、この浜野の努力を気の毒に思いひそかに当時官営燃料探しをしとぃた八幡製鉄所に売り込んだら浜野も助かるだろうと時の長官白仁武に口添えしたので折柄強粘結炭探しに乗り出していたので日鉄買収となり茲に当時の金で300万円という金がころがり込んだ訳である。当時、反対党の憲政会がこれは政治的問題であるとて横槍を入れたが、くつがえすことは出来なかった」とあります。
 佐世保(軽便)鉄道の株主にも浜野治八さんは名を連ねています。
 
次回は吉井南小学校の石垣です
 
 
 
 
 
 
 

2015年11月16日月曜日

3.佐世保市中里地区の宝篋印塔

(1)新豊寺(しんぽうじ)跡
 中里駅裏のお堂のところに、古い石仏、石碑、六地蔵などが寄せ集められています。この寺は佐世保では最も古い寺かもしれません。というのも、宗家松浦が今福から相浦へ移った頃、初めに建てられた寺といわれています。宝篋印塔の小型のもの2基が石垣の上に並んでいます。
 

  大型のものは正面からは写真に収められませんが、これら3基は正体のもので、いずれも緑泥片岩製ですが、刻字が読めないので、建造年も誰の墓か供養塔かもわかりません。


  
 (2)東漸寺墓地の宝篋印塔
 こちらのものは、宗家松浦の13代目の当主、源盛(さかり)の墓と良くわかります。宗家松浦家とは平戸松浦家(こちらは本家と言っている)と祖先を同じくしていて、戦国時代に今福から相浦に移り住んでいたが、平戸松浦に攻められて、平戸の軍門に下っています。江戸時代には、幕府武州葛飾郡内で、3000石の旗本として子孫は明治まで続いています。

 
   基礎の刻字は現在はっきりしませんが、佐世保市の文化財に指定された頃は読めています。 

     当時、拓本に採った文字を紹介します。源盛、前丹州太守など記され、建造年が応仁元年(1467)とありますから、史実とも合致します。宗家松浦家の系図では盛の生年は応永29年(1422)で没年は応仁元年です。

 

 
     墓石 や供養塔ばかり続きましたが、これらのものは非常に数多くありますので、次回からは他のものにします。しばらくは石垣の気に入ったものを紹介します。
 
 

 
 
 
 
 
 

2015年11月9日月曜日

2.佐世保市小佐々の石塔群

小佐々の石塔群  
 西海国立公園の九十九島に面した小佐々には、西彼杵産の緑泥片岩で造られた古い石塔が数多く残っています。海の交易が昔から行われていたということでしょう。小佐々郷土館にはこの中でも寄せ集めではない正体のものが4基保存、展示されています。
 右2基は宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれるもので、建造年が読み取れます。右端から、この宝篋印塔は鎮信鳥居を探し回っていた時から、教えてもらっている、地方史家の吉永等さんが小佐々町平原免沖田山東側山麓の旧墓地で1997年9月に発見されたものです。なぜか発見者の名前は記されていません。
基礎にある刻字には、応仁2年(1468)の文字がはっきり読み取れます。発見された場所は寺があったところではなく、当時、小佐々を治めていた小佐々氏の有力者の墓ではなかろうかと考えられています。
 
 この石材は緑泥片岩と呼ばれるもので、古いものでも文字が良く読めます。土ぼこりを落としたら、応仁の文字が見え、その時は身震いがしたと発見当時のことを昨日のことのように吉永さんは話されています。
 
 宝篋印塔の部分名称について
 右から2番目の宝篋印塔は応永31年(1424)の銘がはっきり見えます。「前住当山月堂庵主」と読めるので、お坊さんの墓と見ていいのではないでしょうか。
小佐々の永徳寺の墓地にあったものです。左2つは五輪塔で、14世紀、南北朝時代のものと説明文がついています。
 
 

いずれも、緑泥片岩製の完全なものです。小佐々の古刹永徳寺の墓地にあったものです。小佐々のこの頃の歴史がはっきりしないのに、これだけのものが、この田舎に現存することは非常に珍しいのではないでしょうか。
 現在の永徳寺の墓跡には寄せ集められた墓石が雑然と置かれています。緑泥片岩製のものが、不完全なものを含めて200基ほど残っているのは、長崎県内ではここだけです。
 
次回は佐世保市中里地区の宝篋印塔について書きます