2016年4月25日月曜日

26.三領石

平戸藩・大村藩・佐賀藩の境
 ここに行くには、波佐見からが普通で、案内標識も波佐見町が整備しています。
 小高い山の中で、周りはスギやヒノキが植林されています。この三領のまわりは、江戸時代から焼き物の産地で、秀吉の朝鮮出兵の時、三領の領主たちが連れてきた朝鮮人たちにより窯が築かれ、焼き物特に白磁の製品は、それまで日本にはなかったのですから珍しく、高級品が造られるようになりました。
 平戸藩は三川内に、大村藩は波佐見にそして佐賀藩は有田に続く土地です。まず平戸藩側には
 表記は「此三領境西北峯尾続雨水分平戸領」と書かれた三角柱の高い石製です。大村側には
 「此三領境東西峯尾続雨水分南大村領」とあり、佐賀側には

 「此三領境東西北峯尾続雨水分佐嘉領」と刻まれています。
 佐賀県有田町、長崎県波佐見町、佐世保市三川内町はいずれも立派な磁器の産地です。この場所にまとまっているので、白磁の磁石を産出する山があるのだろうと考えたこともありましたが、実際に行ってみると、それらしいものはありません。有田の泉山には昔、磁石を掘り出した跡が今も分かります。最近の焼き物の粘土は天草からのものを使っているそうです。
 寛保2年(1742)に建てられたこの石碑は、2mを超す高いものですが、幅が30cmですから、威圧感はなく森の中にひっそりと立っています。

次回は平戸と大村の藩境です





2016年4月18日月曜日

25.亀扶(5/5)田の平神社

田の平神社(松浦市田の平)
 松浦市の上志佐地区でも佐賀県堺の山奥といったほうが良い所です。
 神社の鳥居をくぐったすぐ右側にあり、手水鉢の形態をしていますが、亀さんの後ろ半分は平らになっていますから、ここには何らかの石碑が載せられたのではないでしょうか。
 この亀扶の横には数個の角柱の石碑の小さいものがあります。最初の頃には、手水鉢の横にこれらの内の石が一個乗っていたと思われます。残念ながらそのどれも風化がひどく銘文はほとんど読めません。

 神社の境内はきれいに整備されていて、地元の人たちの信仰も厚く、お祭りも毎年行われていると聞きました。
 志佐川の上流の山の中にしてはこの神社の周辺にはかなり広い田んぼがあります。それで「田の平」とい地区名が付いたのだろうとひとりで納得しました。

次回は藩堺の石碑(三領石)について書きます


 



 

2016年4月11日月曜日

24.亀扶(4/5)勝尾岳

勝尾岳、白狐山城跡(平戸市鏡川町)
 戦国時代、ここに白狐山城があり、平戸松浦家の基礎を築いた所と言えるでしょう。小高い山ですから、簡単に登れたのに、最近はイノシシ対策のフェンスが張り廻られていて簡単には行けなくなりました。
 頂上に記念碑や祠などがあり、平戸藩第10代藩主熈(ひろむ)公が建てた記念碑に亀扶があります。

 何らかの記念碑であることは分かりますが、文字が読めずにはっきりしません。山頂に上ってくる途中には、戦国時代の平戸の領主たちの墓が2基ありましたが、あとから建てたものです。第9代清公と10代熈公の2代に渡って、平戸松浦家の「家正伝」を編纂しています。それが出来上がったことを記念して、苦労した先祖の墓も遅ればせながら、造られたようです。そのひとつ


 平戸藩初代藩主、鎮信(法印)公の2代前の領主、興信(おきのぶ)高齢公の墓です。藩史でもこの人の生没年は不詳となっていて、戦国領主はいつ生まれたのか、いつ死んだのかもはっきりしていないのですから、まさに歴史は勝者の記録といったものです。 

 
 頂上にある祠は、木の扉で鍵も掛かっていないので開いてみたら、白馬にまたがった、勝軍地蔵がありました。相浦の愛宕祭の時には、東漸寺の住職が背中に背負って飛び石を渡って愛宕山の頂上まで運び、2月24日~25日だけ1年に一度の御開帳となる代物です。ここでは無造作に置かれいます。ほとんどここまで登ってくる人がいないのではないでしょうか。雑木が茂って人を寄せ付けないような雰囲気のところです。
 

 
 登ってくる途中には高校時代、体育の教師をしておられた先生の墓もありました。平戸藩の家老の家柄の人です。


 
次回は田の平神社の亀扶について書いてみます





2016年4月4日月曜日

23.亀扶(3/5)雄香寺墓地

雄香寺の墓地(平戸市大久保町)
 雄香寺は元禄8年(1695)平戸藩第5代藩主棟公の時整備されています。その墓地には、歴代藩主の墓(全てではない)が多く在ります。その中でも中心に大きくて立派な墓が第4代藩主鎮信天詳公の墓です。
 灯篭も数多くありますが、墓のすぐ左脇に亀扶があります。
 供養塔でしょうか、亀の像も丁寧に刻まれています。笠の部分には獅子の像でしょうか、竿は八角柱です。「史都平戸」によると、鎮信天詳公の墓は江戸の天詳寺にありますが、平戸にあるのはいわゆる「遥拝墓」なのかも知れません。天詳寺という寺の名前からすると鎮信公ゆかりの寺ということになります。現在もこの寺は東京にあり、松浦史料博物館の学芸員がここを訪ねたら門前払い食らったと話していました。
 平戸藩の藩主が亡くなったのはほとんどが江戸ですから、この天詳寺が平戸藩の菩提寺だったのです。ところが大正12年の関東大震災で、墓地も被害を受け、昭和3年にかなりの藩主の墓が平戸雄香寺へ改葬されています。「甲子夜話」の随筆で有名な第9代藩主の清公の墓も雄香寺墓地の歴代藩主の右隅にあります。ところが、鎮信公の墓だけは改葬されていないとのことです。
 もっとも、第5代藩主棟(雄香)公の墓だけは、墓地ではなく本殿の中にあり、一般には見ることができません。見た人の話では屋内にあるので全く痛んでなくきれいな石塔だそうです。

次回は平戸勝尾岳白狐山城跡の亀扶です