2019年7月29日月曜日

196.嬉野市の肥前狛犬2

丹生大明神(嬉野市嬉野町不動山)
 この集落には、大きなお茶の木「大茶樹」があり、公園として整備されています。

 よく見ると、1本の木はそれほど大きくはなく、小さなものの寄せ集めみたいです。


 この大茶樹のそばから「九州のマッターホルン・虚空蔵山」の登山口があります。標高608mですから、高い山ではありませんが、長崎県と佐賀県の県境にあり、川棚町方面から見たら頂上が尖った鋭いたたずまいから、「九州のマッターホルン」と呼ばれる独立峰です。もっとも、九州ですから冬になっても、雪は積もらず、氷壁などは見ることはない、緑のマッターホルンです。
 私も何度か登ったことはありますが、川棚、彼杵、嬉野と登り口は3か所あり、嬉野からの登り口がこの「大茶樹」のところです。  
 では、肥前狛犬と行きましょう。

 
 
 
 
 本殿前の草むらの中に1体だけ肥前狛犬はあり、反対側にもそれらしい草むらがあるけどいくら探しても見当たりません。盗まれたのかも知れません。 

次回はもっと山の中に行きます




 

2019年7月22日月曜日

195.嬉野市の肥前狛犬1

不動山丹生神社(嬉野市嬉野町不動山)





 嬉野市は塩田町と合併をして旧嬉野町と旧塩田町との2つに市街地は分かれています。嬉野町は古くから温泉町として有名です。子供の頃、母方の祖母クヨばあちゃん(塩田町の生まれで94歳で亡くなった)に連れられて来ていたことを思い出します。
 地元の人に出会わなかったので、どの山が不動山であるか確認は出来なかったけど、近くにある「虚空蔵山」は確認できたので、たぶんこれが不動山だろうと3人で話したものです。
 ここの肥前狛犬は1対2体ですが、大きな高い台座に乗せられて、本殿から離れた所に鎮座しています。堂々とした風格があります。盗まれる心配はなさそうです。

次回は嬉野市の肥前狛犬2です




2019年7月15日月曜日

194.佐世保(軽便)鉄道の神社の鳥居(下)

佐世保(軽便)鉄道の神社の鳥居に残る人たち(下
 佐世保鉄道の本社と上佐世保停車場は同じところにありました。現在の俵町教会の所です。

 佐世保市立図書館の郷土資料関連の部屋の鍵がかかった棚から写真付きの人名録を出してもらい、見せてもらいコピーを取ることができましたので紹介します。4人の人です。

  筬島桂太郎  

福岡県柳川出身、明治法律学校卒業後、福岡県属任じ、明治35年佐世保市制実施さるるや愛媛県属より転じて佐世保市助役となる。39年3月愛媛県上浮穴郡長に任ぜられ、40年4月辞任後、大阪電灯会社庶務課長となり佐世保支店長兼ぬ、後、東洋精糖会社主事並びに新高製糖会社主事に就職す。大正7年8月佐世保軽便鉄道株式会社の創立せらるるや専務取締役に就任し、大正10年8月佐世保市長に挙げらる』 

  草刈源四郎

『 19年4か月間、山口村長(現在は佐世保市相浦)を務めた。よほど行政手腕に長けていたのだろう。氏の祖は草刈太一左衛門と同族の、29世松浦鎮信(天祥公)に仕えた草刈十郎左衛門だといわれる。太一左衛門が大野に住したのと異なり、源四郎氏は平戸に土着した。
 氏は慶応元年(1865)出生、平戸、武生水、厳原の三署を経て明治21年警部。神代分署長、(中略)愛媛県西条警察署長などを勤めた。
 明治42年退職し帰郷、同43年4月北松浦郡山口村長に就任する。前村長松崎安之助氏は土地の人だったが、草刈氏は平戸の人。おそらく当時代議士だった中倉万次郎、前代議士草刈武八郎両氏あたりが推したのではあるまいか。(後略)  』

  七種純一郎

『(市会議員)京都医専出身、先代故周哲翁の刀圭家を継ぎ小児科専門たり大正11年6月市会議員に当選し、佐世保新聞社相談役その他諸会社の重役に挙げられる。  』 

  篠崎緑吉

『 明治16年8月市外中里村の旧家に生る。平戸中学校を出で東京に於て法律経済の学を修め帰郷して鉱業に従事し主として北松炭田不振を慨して其発展に努力すること十余年、(中略)大炭脈を発見し、炭鉱界の開拓者として其偉大なるを称せられ更に叶小佐々中通の各炭鉱を経営し、又は経営しつつありて益々炭鉱業の開発に努力す。大正11年6月市会議員に挙げられ昨年9月佐世保新聞相談役に推され其他公共事業及び郷覚の為に力を盡しつつあり。  』 

  浜野治八

 この人は佐々町の人ですから、「佐々町郷土誌」に詳しく出ています。そこから佐世保軽便鉄道に関することを主に書きたいと思います。
 元治元年(1864)生まれ、昭和22年死去、83才。炭鉱経営を志し、苦労の末に強粘結炭を産出する鹿町炭鉱を開発した。この炭鉱の開発での浜野の苦労を知っていた中倉万次郎は政府に働きかけて、八幡製鉄所に買収されるようにした。当時、憲政会所属の中倉は、国会では反対勢力の政友会からの反対もあったが、当時の金額では300万円、現在の金額では数百億円の金額であった。その金で、浜野は自宅を新築して現在も残っているけど、その石垣の見事さはあまり他に例を見ない、丸い石(黒島の隣の伊島の石)を割って、その面を見せている。
 その後、神社やお寺にも多額の寄付を行っています。自宅のすぐそばの東光寺にはお寺の本堂を1人だけで寄進しています。東光寺の位牌堂には、本尊の右側には歴代の住職の位牌が置かれていますが、左側には浜野家、特に浜野治八の戒名は中央に大きなものが置かれて他の檀徒とは全く違った扱いになっています。浜野治八さんの戒名は「北斗院殿東光如雷大居士」となっています。院殿、大居士の戒名は昔の殿様だけしか見たことがなかったのに驚きました。昭和22年の戦後ですからこの戒名もお寺は付けやすかったでしょう。

 以上で鉄道会社が建てた鳥居の足の残っている10人のうち、8人の人のことが分かりました。しかし、調べた中で「郡禎三郎」「崎田信雄」の両氏のことや写真がありません。どなたか知らせてもらえればありがたいと思っています。

次回から肥前狛犬になります







2019年7月8日月曜日

193.佐世保(軽便)鉄道の神社の鳥居(上)

佐世保(軽便)鉄道の神社の鳥居に残る人たち(上

 鳥居としては特に珍しいものではありません。肥前型でもなく比較的新しく、昭和11年3月に建てられた明神型のものです。
 しかし、ここに取り上げたのは、佐世保鉄道(株)が左石駅構内に交通安全の神様として祀られたものです。神社名は「宗像神社」といいます、最近福岡県の宗像大社・沖ノ島などが世界遺産に登録されて脚光を浴びている神社の末社ということになります。この鳥居の足には奉納者10人の名前が記されてその人たちのことは調べればわかるだろう思い立ち写真を撮りに行きました。

 昭和11年3月には、左石駅構内に建てられた神社の鳥居でした。軽便鉄道の釜焚き、その後、国鉄の機関手だった故山田博儀さんの証言です。左石駅の駐車場になっているところにあったそうです。その後、構内は手狭になって昭和20年代に移転されました。
 現在は、石盛山頂上付近にある石の祠の所に玉垣も少し移転されたようですが、最近もお祭りがされたようで鳥居の注連縄も掛けられています。しかし、この昔からあった石の祠、2か所の神社名は分かりません。

  鳥居の足の奉納者名は全員で10人です。
 
 
 
 順番に名前を書きだします。
     中倉万次郎
     筬島桂太郎
     浜野 治八
     草刈源四郎
     武   文彦
     七種純一郎
     篠崎 緑吉
     郡 禎三郎
     崎田 信雄
     草刈 克己
 当時佐世保の周辺では、政財界の大物ばかりです。佐世保市図書館で見せてもらった「佐世保名鑑」によると、昭和9年7月1日の佐世保鉄道(株)の説明では、「鉄道総延長35.5km、同年度上期における石炭総輸送量17万トン、旅客人員573、536人に達す」とあり、重役は次のごとしとあります。
     社長  中倉万次郎 
     取締役 筬島桂太郎 
       同  浜野治八 
       同  森   肇 
       同  草刈源四郎 
     監査役 七種純一郎 
       同  篠崎緑吉 
       同  郡禎三郎 
       同  崎田信雄 
     支配人 武 文彦
       
 2年の違いはありますが、どちらも10人で、1人だけ入れ替えられています。昭和11年9月30日発行の「佐世保鉄道国鉄買収記念アルバム」(故井出一郎氏所蔵)に鳥居の足にある人名のうち3人がありますので、紹介します。
  
 社長 中倉万次郎

  嘉永2年(1850)年、吉井村の川崎家に生まれ、平戸の藩塾などで学び、秀才の誉れ高く、世知原村の中倉家の養子となる。若いころは平戸藩に仕え、藩主の若君の教育係を務めています。20代で北松浦郡内の村長となり、次に長崎県会議員となり、その後、衆議院議員となり、副議長までなっています。経済界でも、佐世保に銀行を作ったり、世知原のお茶の製造にも最初に取り組んでいます。長崎県北部では政財界の超大物と言えるでしょう。(世知原郷土誌から)
  昭和11年1月には、88才(数え歳)の高齢にもかかわらず、東京まで出かけ、佐世保鉄道を国鉄に買収してもらうことを決めてきています。それで安心したのか、病気になり2月になって亡くなっています。北松浦郡内には顕彰碑などありますが、それには「中倉万次郎翁」と記され、老人になってからの活躍が目についたようです。世知原の自宅の上の方にある墓地には息子さんの名前ではなく孫の名前で建立されています。息子よりも長生きしたのではないでしょうか。それによると「仁量院殿万照浄境大居士」と院殿大居士の戒名が記されているので、昔の殿様並みです。

専務取締役 武 文彦

 昭和9年の会社案内では「支配人」となっていますが、国鉄買収記念アルバムでは「専務取締役」となっています。買収が決まり、佐世保鉄道が国鉄になるのですから、役員はそんなに大勢はいりません。以前からの取締役ははずして、佐世保軽便鉄道の初期からいた、神戸の人で鉄道に関しての専門家はただ一人と思われますので、専務にしたのでしょう。中倉万次郎存命中の人事でしょうから他の人に意義があるはずはありません。鼻髭は分かりますが、胸の勲章はどういったものでしょうか。

 支配人 草刈 克己

 他の人に比べて格段に若い人ですね。草刈家はこの辺りでは特別格の家です。先祖の草刈太一左衛門は江戸時代の末期に魚の行商から身を立て、炭鉱主となり石炭の輸送にも手を広げ、平戸藩に1000両の大金を上納して、名字帯刀を許された人です。その後、水田の干拓も手広く行ったことでも有名です。
  その直系の子孫が草刈克己さんです。(前出の山田さんの話)山田さんは若いころ、家も近かったので盛んに草刈家に出入りしずいぶんタカッタものだそうです。現在では草刈家の資産はあまりないとのことです。草刈家の墓地は佐世保市真申の山の中腹にあります。

 親族の大きな墓がずらっと並んでいます。それによると、「草刈太一左衛門重光」と長い名前が書かれています。この人の話はずいぶん残っており、家宝は魚屋の頃の「てんびん棒」だそうです。相浦川筋、大潟新田100町歩の竣工式では、臨席した平戸藩最後の殿様、詮(心月)公は着用していた陣羽織を脱いで与えた(「史都平戸」松浦史料博物館発行)との記録もあります。






2019年7月1日月曜日

192.交通遭難者之碑

交通遭難者之碑(佐世保市中里町)
 交通遭難者の碑などは珍しいものではなく、高度成長の頃には交通事故死者の数は年間、1万人を超えていて、交通戦争と言葉が報道されていました。現在はずっと死者の数は減りましたが、痛ましい交通事故が無くなったわけではありません。
 この記念碑の前を通っている道路は、国道204号線で北松と佐世保市を結ぶ幹線道路でした。その後バイパスができたり無料の高速道路ができたりして、めっきり交通量が減ってしまいました。私が佐世保工業高校に通勤していたころはこの道しかなかったので渋滞の中を通って自然渋滞のため遅刻したこともありました。しかたなく、山越え道を見つけ出して通ったこともあったくらいです。



 この記念碑は昭和36年10月に建てられています。建てた所は相浦地区交通安全協会とあり、文字を揮毫した人は当時の佐世保市長の山中辰四郎さんです。
 なぜ、こんなどこにでもある記念碑を取り上げたかというと、長崎民医連の佐世保支部「させぼ健康友の会」の事務所兼「いこいの家」の真ん前にこの記念碑があり、いこいの家には毎週「パソコン教室」に来ています。スマホで写真を撮り、メールでパソコンに写真を送る操作の練習もしました。