2016年5月30日月曜日

31.織部灯篭(1)小佐々大悲観

大悲観公園(佐世保市小佐々町)
 文政13年(1830)平戸藩10代藩主、観中熈公が小佐々のお茶屋敷の近くの大岩に「大悲観」大文字を刻ませたものが、残っていて公園として整備されています。その公園の中にこの織部灯篭はあります。
 織部灯篭とは戦国時代から江戸初期の武将、大名で、茶人としても有名な、古田織部(ふるたおりべ)が考案した庭園用の石灯篭のことです。全国各地にに残っており、灯篭のお地蔵さんの衣が長く裾を引いているのが特徴です。茶器にも織部焼と呼ばれる銘品があります。
 キリシタン灯篭というものもあり、宣教師のガウンが長く裾を引いているものと似ているので、混同された時もあったようです。
 灯篭ですから「火袋」もあるはずですが、ここにはなく、近くの七宮神社の鳥居のそばにあります。
 本来、火袋は笠と竿の間にあり、油やローソクに火をともすものです。七宮神社の所にあった、お茶屋敷の灯篭を移動するときに火袋を忘れたようです。
 江戸時代、小佐々新田の開発をした谷村家の墓地も近くにあり、この灯篭の背後の岩には、谷村貞之夫妻の戒名も刻まれています。
 そこで、いっそのこと本来の形に自分たちでやってみようと思い立ちました。文化財には手を加えてはいけないことは分かっていますが、これらは、佐世保市による文化財には登録がされていません。白御影石製のこれらはかなりの重さですから、一人の力ではどうにもなりません。幸い洗鱗荘ブログのS氏がクレーン車を持っているので、相談したら、是非やろいうということになり、一気に片付けました。
 これで完璧と思ったけど、火袋と竿の間には、中台があったはずです。昔の庭園跡も探してみたけど見つかりませんでした。以前は傾いていたけど、それも修復して直立しています。前よりずっと良くなりました。 作業を吉永さんはずっと見つめていました。

次回は平戸棲霞園の織部灯篭です




2016年5月23日月曜日

30.佐世保駅前松蔵ビルの古い道しるべ

松蔵ビル駐車場の道しるべ
 以前佐世保駅前に「ホテル松蔵」という瀟洒なホテルがありました。芸能人やプロ野球選手が泊まったりしていました。私は泊まったことはありませんでしたが、レストランには1~2度行ったことがあり、若かったので、気遅れを感じたほどでした。このホテルの玄関脇の植木の中に、これらの道しるべはあったそうですが、それらがまとめられています。
 これらは、佐賀県伊万里出身の松尾良吉(安政4年1857-昭和7年1932)という人が、明治から昭和にかけて、佐賀・長崎県に数多く建てられたようです。現在残っているのは、この7基だけですが、戦後の車社会になって、道路の拡張、舗装が行われ移転されたものでしょう。指先で方向を示したもので、何か懐かしさを感じます。全部並べてみます。


 
  
 
 
 
 ここに書かれている地名では、私が知らないところもあります。これらの石の横には「松尾良吉 建」と彫られているので、工事関係者から連絡があり、子孫の方が引き取り移転されたのでしょう。佐世保湾を一望する鵜渡越には「鵜渡越開発者 松尾良吉翁之碑」が建てられています。
 
 文化財に指定されていないものは、県や市の教育委員会は、自分たちが指定していない文化財には全く関心がないので、工事の度に無名の文化財は取り壊されてしまいます。石材の場合、産業廃棄物として、破砕してコンクリートのバラスとして使われると、石材業者から話を聞きました。
 
 道しるべは江戸時代に売り出された地図には「傍示石」として、書かれています。これは平戸藩内のもので、田平から江迎方面と御厨方面の分岐点にあったもので、現在これがないので、分岐点の位置が確定できないのが、平戸街道ウォーキングの案内の時あいまいな説明に終わっています。

〇 の中に「傍示石 右江迎 左御厨道となり」と書かれています。道しるべはまだまだあるとは思いますが、昔のものは見つからないかも知れません。
 
次回からは織部灯篭です
 







2016年5月16日月曜日

29.平戸・志々伎山の道しるべ

志々伎山登山の道しるべ
 志々伎山は初めて登った時から、素晴らしい眺めは印象深く、低山(347m)ながらも、360度の眺望ができます。山頂から青い海の中の魚群の動きが見えた時もありました。それもそのはず山頂はこんな格好をしています。

 昔から霊山として、あがめられ、航海の目印としてもされていました。駐車場からの登山はそれほど時間はかかりませんが、岩場や斜面を登るので、地元の人がロープを張ったところが何か所もあり、それなりにきついものです。三分の一ほど登ったところに、こんな道しるべの石があります。

 この縦長の標柱は半分に折れて、読みにくいので書き記します。
此處ヲ下レバ海岸ナラン斯ノ疑アレモ先ハ登路トナル也
    平戸町 鏡川 山本廣太 敬白
   明治三十三年八月    」とあります。本当に海へ下って行く感じがして,せっかく登ったのに下るのはもったいないと思います。そして最後の直前に次の道しるべです。

  「此ノ行止リハ膝ツキ岩ト穪スル●(不明)〃岩ナリ是ヲ攀登ラザレバ他ニ路ナキ也 」と書かれていて、なかなか親切なものですが、今頃登る人は読めないでしょうね。
 明治33年に、これらの道しるべを建てた山本廣太さんは山登りも好きだったのでしょうが、生活に余裕があった人なんでしょうね。この道しるべの直後に
 こんな看板「草履置場」が出てきます。昔、志々伎山は女人禁制の山で、ここから先は、男でも履き物は脱いで裸足で登らなければならない聖地だったようです。この山に関しては古くて、他にはない変わった石の文化がまだまだあります。

次回は佐世保駅前にある少し前頃の道しるべです。



2016年5月9日月曜日

28.佐賀藩と大村藩の境石


長崎街道俵坂関所跡
 佐賀県嬉野市と長崎県東彼杵郡の佐賀藩と大村藩の境の俵坂峠にあります。
 ここの分は、佐賀のもので、これより北は佐嘉領と書かれています。すぐ横に、見上げるような大きな関所跡の記念碑が、昔佐賀藩の鹿島藩主の子孫、鍋島直紹が佐賀県知事になった時、昭和になってから建てられています。欠点はあまりに高いので、当時の嬉野町の説明の銅板が埋め込まれていますが、黒ずんでいて読めません。
 
 長崎街道はここを通っていて、通行できますが、すぐ上の段に国道34号線があり、関所跡の表示がされています。



 長崎県側の大村藩領にも、石柱がありました。これは江戸時代には佐賀藩領の境界石と並んであったとのことですが、明治の国道建設後、その所在が分からなくなっていたそうですが、昭和33年俵坂バス停付近の土中に上の部分が欠けた姿で発見され、元の所から200mほど離れた現在の場所に移されました。

 この藩境石は江戸時代の記録では、5尺5寸・・・1.7mの高さで、佐賀藩のものは2.85mですから、並んで立っていれば、その違いを見せつけていたのでしょう。佐賀は35万石の大大名、大村は2万石の小さな藩、封建時代とはこんなものでしょうか。この境石には「従是(これより)大村領」と書かれていたそうです、上半分はいまだに見つかっていないみたいです。

次回は平戸・志々伎山の道しるべです






2016年5月2日月曜日

27.平戸藩と大村藩境

舳の峰(へのみね)峠
 平戸街道ネットワークの会で、田平から彼杵までを、6区間を毎月一区間およそ12,3キロを6,70人で歩いています。北部の平戸に近い所では解説もしていますが、南部ではもっぱら救護車(と言っても自家用車)を運転して楽をしています。平戸街道はこの6区間に山越えの坂道がない所はありません。かなり年配の人も参加しますから、疲労困憊する人もいるので、そんな人を安全なところまで輸送していて、過去十数年事故がないのが自慢の会です。
 その南部地区の早岐~川棚間に舳の峰峠があります。
今ではバスも通う道で、「番所峠」のバス停があります。平戸藩と大村藩の境です。


 
 そこに平戸藩の役人が詰めていた番所が江戸時代にはありましたが、現在は農地になっています。番所跡の解説を参加者にしているのは川里さんです。(これはコンクリート柱の番所跡碑)
  そこの役人だった人の子孫の方は、ここより数百メートル麓に移られて農業をされています。この方の庭先に藩境の石碑は移されて大切に保存されています。

 なぜか「これより西は平戸藩」という同じような境の石碑が2個ありますが、石の材質が違うので、建てた時代も違うのでしょう。
戦国時代の領地分取り合戦で、境木峠(佐世保市春日町)までだったのを平戸方が早岐の先まで大村から分捕った所です。
昔はこの近くには大村方の境石もあったと思いますが、見つかっていません。
 
次回は佐賀藩と大村藩の境石です