2018年12月31日月曜日

166.佐世保市広田町の瓦造り狛犬

佐世保市広田町の瓦造り狛犬 
 佐世保市の早岐には平戸瓦という独特の瓦がわずかですが、残っていて平戸街道ウォーキングの時に見ていました。普通の瓦が軒下から見て、左側で重ねているのに対して、平戸瓦は右側で重ねています。良く見ないとわかりません。
 筒井隆義著「改訂増補版 させぼ歴史散歩」によると、早岐の広田町の一角、納屋谷(なやのたに)に瓦製の狛犬があるというので見に行き写真を撮ってきました。




 ア・ウン1対とやや小さいも1基合わせと3基の瓦製狛犬です。ア像の足の部分には、文政元年(1818)の年号と丸田伊代吉の名が刻されています。200年経っていますが、はっきりと読み取れるのは、粘土をこねて作りまだ柔らかい内にへらで彫りこんだものだからでしょう。ア像の口を開けたところが割れているのも焼き物の特徴です。ここには石の祠もありますが、瓦で造られた祠も3個あります。

 この場所は、戦国時代末期、平戸松浦方の広田城があったすぐそばの高台です。赤い木の鳥居は朽ちたのがありますが、瓦ぶきのお稲荷さんのお堂もあり中に掲げられている寄付者の名前には、丸田姓が数名ありました。

 
 この付近は新しく開発されて住宅街になっています。お堂の下には登り窯があったと思われる段々が続いていて、最下部には窯の焚口の埋もれたものが残されています。

 この付近には、白磁のかけらや瓦の残欠があちこちに見かけられます。丸田家の窯もあったことでしょう。平戸瓦については江戸時代の文書が残されていて、それによると「丸田家の祖先は木原の焼物師だったが、平戸城を築立てのとき瓦を焼く者がいず、瓦焼きを仰せ付けられた。そこで瓦用の土を求めて広田村に移り住み、焼きたてて収めたところ城普請も成就した」と記されています。平戸城(亀岡城ともいう)再築は元禄16年(1703)に幕府の許可を得、享保3年(1718)に完成しています。
 納屋谷一帯は焼き物窯があり、細工場や民家もあったでしょう。現在も民家がありますが、自動車は入れない狭い道しかないのが今時珍しい所です。

次回は平戸街道に駅逓制度の馬屋の石造り馬小屋跡を発見














2018年12月24日月曜日

165.大牟田市教楽来天満宮の石造り狛犬

大牟田市教楽来天満宮の石造り狛犬
 教楽来(きょうらぎ)天満宮ですから、天満宮が3か所続きました。大牟田といっても荒尾に近い山の中のさびしい所でした。階段を上った山門は昔は立派なものだっただろうと思わせるたたずまいで、石造り狛犬1対の外に、藤原道真公の木像も古いものが安置されていましたが、最近この神社を訪れる人はあまりないようです。本殿前の広場はイノシシのぬた場みたいで、荒れたままになっていました。
 石造り狛犬は山門のところの格子戸の中に収められていたので、薄暗く、写真を撮るのに苦労しました。

















 説明板によると、この狛犬は奉納者が「藤原秀行」と記され、室町時代1460年代と思われるものですから、九州では最も古い石造り狛犬ではないでしょうか。  
 上杉千郷著「日本全国 獅子・狛犬 ものがたり」の中に京都丹後一の宮、籠(この)神社の石造り狛犬が掲載されていて、教楽木の狛犬と酷似しているので、コピーします。

 私が撮った写真は全体像がはっきりしませんが、ネットで調べたらよく写った写真があったので、紹介します。


 京都のものは、ア像の口が大きく開き、ア・ウンの違いがはっきりしますが、教楽木天満宮のものは、ア・ウンがはっきりしませんが、両者はよく似ていますね。京都の狛犬は鎌倉時代の作(年代不明)で、重要文化財に指定されています。
 上杉さんの本では、石造り狛犬としては、奈良東大寺の狛犬が最も古いものだそうですが、これは中国石を使い中国人によって刻まれたものだそうです。その後、これをモデルとして日本に石造り狛犬が広まっていき、最初の頃は、中国風だったけど、日本風な狛犬の最初のものは、京都の籠神社のものであると書かれています。
 私の感じとしては、京都の狛犬を刻んだ人を、京都から来た藤原一族が連れてきて、刻ませたのではなかろうかと思いましたが、少し時代が合わないようです。しかし、京都の籠神社の狛犬を見たことがある人が彫ったのは確かだろうと思います。

次回は瓦製の狛犬です







2018年12月17日月曜日

164.久留米市(2)藤吉天満宮の肥前狛犬

藤吉天満宮の肥前狛犬
 こちらも天満宮さんです。菅原道真公を祀った神社は多いですね。



 中型の立派なものですが、ア・ウンは、はっきりしませんが、ア像と思われるものの右足が折れているのが、痛々しく残念です。ここも宮司さんはいませんが、神社の管理は行き届いています。

次回は大牟田市の教楽来天満宮の石造り狛犬です





















2018年12月10日月曜日

163.久留米市(1)青木天満宮の肥前狛犬

青木天満宮の肥前狛犬
 久留米は佐賀藩ではありませんが、佐賀藩内と同じような肥前狛犬があるということは、肥前砥川の石工がやって来て造ったからでしょう。



 この神社には、宮司さんは常駐してはいませんが、地区の人たちが管理していて、よく保存されています。この日も町内会の正副会長さんが対応されて、説明のほか、お茶とお菓子のご接待もありました。現在は、神殿内に狛犬さんはいますが、ずいぶん風化が進んでいるということは、以前は、屋外で風雨にさらされていたものと思われます。

次回は久留米市藤吉天満宮の肥前狛犬です









2018年12月3日月曜日

162.厳木の肥前狛犬9

厳木町の肥前狛犬9 
 山の中のさびしい所です。かわいらしいので、誘拐されそうなので、神社名は出さないことにします。


 
  白くてきれいなのは奉納されてからずっと屋内に置かれていたからでしょう。記銘年が読み取れます。元和三年、1617年ですから、江戸時代と言っても、大坂夏の陣の2年後ですから、徳川の世になってすぐの頃です。このように、年代が読める肥前狛犬は全体では数少なく珍しいものです。 

次回は久留米市青木天満宮の肥前狛犬です
  


















2018年11月26日月曜日

161.厳木町8(若宮大明神)

若宮大明神(唐津市厳木町天川
 この神社を訪ねたのは2度目です。前回の時は、肥前狛犬は盗難を恐れて町内会長さんが自宅に保存されているということで、お目にかかることができませんでした。今回は永渕さんが神社の氏子総代と連絡を取り、神殿の中に鍵をかけて格納されている肥前狛犬1対2体を見ることができました。


  かなり胴体が長いもので、ア・ウン1対です。以前は屋外の祠のそばに置かれていたので、顔はずいぶん摩耗がひどいものです。神殿の中では、段ボール箱の中に新聞紙にくるまれていてかわいそうでしたが、安心して皆が見えるところに安置されることを期待したいものです。
 厳木町の天川(あまかわ)という所は九州電力の天山揚水発電所があるので、建設工事の頃から時々訪ねたところです。出力60万kwの大きなものです。この神社の近くには、揚水発電所の展示館があり常時開設されていましたが、福島原発のメルトダウン事故以来、日本の原発はすべて停止して、太陽光発電や風力発電が九州内ではずいぶん増えてきました。
 ところが、九州電力が、玄海原発を2基運転を開始しました。最近の報道では、太陽光発電の電力が昼間に余ってしまい、この電力を使うために、揚水発電所を昼間に運転して、下のダムの水を上のダムに汲み上げていると新聞に報道されていました。
 もともと、揚水発電は原発による夜間の余った電力を利用して昼間の需要に応じるためのものでした。九州のように太陽光や山の上や海岸の風力発電に適したところは、これらを増やせば原子力発電は必要ないと思われます。近い将来、原発の廃炉をするときにはものすごい出費がいるでしょうし、廃棄物処分場も決まらないし、将来につけを先送りすることはもうやめてほしいものです。

次回は厳木町の肥前狛犬9です











2018年11月19日月曜日

160.唐津市厳木町の肥前狛犬7

厳木(きゅうらぎ)町の肥前狛犬7
 厳木町の肥前狛犬は以前、6か所紹介しましたので、その続編です。
 この神社も小さくてかわいらしいものがありますが、不用心な所ですから、神社名は伏せます。



 小型のものが、ア・ウン1対2体祠の中に収められています。
デフォルメの効果が見事です。石工のセンスがうかがえます。小さいので、持って帰って飾り物にしようとか、ネットオークションに出せば高く売れそうだと考える人もいるかもしれないので、神社名は出しません。

次回は厳木8です







2018年11月12日月曜日

159.佐世保・相浦港外、高島

高島に行きました
  高島に上陸したのは初めてでした。全国的には「高島」と名が付く島は多いでしょうが、佐世保の高島は相浦町の一部になっているのは、江戸時代もそうでした。以前、船から海釣りを楽しんでいたころは、この高島の回りをずいぶん巡っていました。特に牛ケ首灯台の付近ではクロイオ(メジナ)、やイサキ、アラカブなどが良く釣れていたので再三出かけていて、船の上からは島のたたずまいを眺めるばかりでした。
 上陸して波止場近くの志賀神社を訪ねました。石の鳥居や参道狛犬もありましたが、肥前鳥居や肥前狛犬はありませんでしたが、他ではあまり見かけない、鯨の石像が1体奉納されているのがありました。江戸時代、平戸藩では生月島での捕鯨は有名ですが、高島でも捕れたことがあるようです。

 前回の国勢調査では、島民人口は204という記録がありますが、現在では200人はいないと思われます。この日は「高島まつり」があり、島に渡るフェリーの行だけ無料のサービス(帰りは有料)などもありました。この祭りに合わせてさせぼ健康友の会の人たちと出かけました。

 漁港そばには、特設ステージが造られて、ステージでは相浦にある大学の女子学生3人組が、音楽を流しながら派手なパフォーマンスを繰り広げていました。最近の若者は堂々たるものです。写真はステージを写したので、観客はいませんが、フェリーで来た客が中心でしょうが島民の数よりは多いものでした。我々もステージを見ながら、海鮮味噌汁をどんぶり1杯無料でごちそうになりました。主催者は高島漁協だそうです。
 その後、ウォーキングでしまで最も高い番岳(ばんだけ)に登りました。途中の道路はアスファルト舗装がされているので、電動アシスト自転車の私は歩くよりも楽でした。
 江戸時代末期、黒船が日本近海に出始めたころ、平戸藩はこの山の頂上に「狼煙場」を造り長崎と平戸の連絡用のものです。

 狼煙場の石だけが残っています。資料によると、これらの狼煙による連絡はほとんど機能せず、早船による情報が確実で早かったそうです。
 太平洋戦争の時にはこの狼煙場の少し離れた所に機関砲の基地が造られ、その残骸のコンクリート台座なども見られました。佐世保の山の上の機関砲を空襲に来たグラマンに撃ったけど当たらずに、引き返してきたグラマンに撃ち返されて死んだ兵隊がいたことを聞いたことがあります。何も撃たなければ死なずにすんだにと語り継がれています。
 次に縄文時代から弥生時代の遺跡の「宮ノ本遺跡」に行きました。


























  
 
 この高島では、古墳時代の人骨が数十体発掘されています。ふるくから人類が生活していたものです。
 
 次に、江戸時代の番所の役人の子孫が住んでいる家を訪ねました。庭には大きな銀杏の木があるのが目印です。

  竹邊宗成さんの後ろの建物は江戸時代に建てられたものがそのまま残っているそうです。窓は一切なく板戸を押し上げて外光を入れるようになっています。竹邊さんの家は代々平戸藩の番所役人だったそうで、母屋は改築されていますが、この小屋は手が入れられずにいます。ご先祖の写真も見せていただきました。

 写真の右の人が「竹邊宗八」さんで、ちょんまげを結っているので江戸時代か、明治の初めころのものでしょう。
 
 「石の文化」についてのブログにもかかわらず、今回は島の紹介になりましたが、石の鯨、狼煙場跡の石、宮ノ本遺跡の石棺くらいでした。

次回からはまた肥前狛犬にします












2018年11月5日月曜日

158.佐々町にある芭蕉句碑

佐々町に芭蕉句碑が2つあります
 芭蕉本人は九州には来たことがありません。ですから、佐々町にも来たことはないけど、句碑はあります。 
  個人の敷地内にあるので、場所が特定できる表示は避けることにします。

(1)椎の木・・・の句碑
 芭蕉が奥の細道の旅を終えて、京都の弟子の庵に住んでいた時に詠んだ句として有名です。この場所は京都の嵯峨野にあって、「落柿舎」と呼ばれる草庵ですが、芭蕉の弟子、向井去来のものです。柿の木が数多くあったので名付けられたものですが、敷地内には大きな椎の木もあったそうです。
 そこで、奥の細道の旅から帰ってきたばかりの芭蕉はやっと落ち着いたと思われます。
  「(まず)頼む 椎の木もあり 夏木立」 という句です。長旅を終えた芭蕉のホッとした気持ちがうかがえます。佐々にある句碑は


 この句碑を初めて見たときには、すぐそばに大きくて古い椎の木が立っていて、この椎の木を見て、芭蕉がこの句を詠んだのだろうかと思ったほどでした。しかし、残念ながら、写真を撮りに行ったときは根本から椎の木は折れてしまい片付けられていました。1987年8月30日に平戸瀬戸を通過した台風18号による被害でした。私が経験した最もひどい台風なので記憶も鮮明です。

 椎の木の株の跡です。この場所は江戸時代後期に、平戸藩主松浦熈(ひろむ)公のお茶屋敷として、佐々の金持ちが殿様に献上したもので、重装な門とお茶室そして京都の庭師が造った庭園があり、池には滝から水が落ちるようになっていました。ずいぶん荒れてきましたが、庭園は今も残っています。

 南九州大学の先生が時折、学生を連れてきて、庭園の草取りや剪定などをして、当時の庭園の研究をされています。
 最近では、昔の門、茶室、本宅も取り壊されて、新築された家が建ったり、アパートなども建ち江戸時代の面影を残すものは庭だけになりました。

(2)いざいかむ・・・の句碑
 佐々町のM氏宅の庭にあります。元は(1)先ず頼むの句と同じ場所にあったそうですが、M氏の祖父の代に譲り受けたものだそうです。

 「いさいかむ 雪見にころふ ところまて
 この句は芭蕉の句の中でも有名なものです。芭蕉は推敲の名人と言われています、凡人の私はほとんど推敲をしないし、できません。昔読んだ本でこの句の推敲が何度も行われた経過を見た覚えがありますが、ここにある句碑の句はどれであるか確認していません。
 芭蕉は旅を続けていますが、九州には来ていません。したがって佐々に立ち寄ったこともないのに、この2石碑は誰が、いつ、どんな目的で造られたのかは最初に案内してくれた郷土史家にも何もわからないとのことでした。芭蕉の句碑は全国いたるところにあり、九州にもあります。芭蕉が立ち寄ったところには立派な大きな句碑が立っていて観光名所みたいになっています。佐々にあるものは、江戸時代末期から明治にかけての頃だろうと推定できますが、当時芭蕉句碑建立が流行ったのではないでしょうか。


次回は佐世保市相浦港沖の高島です





2018年10月29日月曜日

157.糸島市の肥前狛犬6

託杜(たくしゅ)神社(糸島市多久)
 この神社にも1対2体の肥前狛犬がありますが、1枚の写真に収めることができません。
 北側のものは 

 南側は

 この狛犬は毎年新しく注連縄をかけられてお祭りをされているようです。注連縄と言えばここ糸島の神社には「しめかけ石」と呼ばれるものがあります。

 上の写真の門柱のような立派な石です。これに竹を渡し、注連縄をかけています。佐賀県や長崎県では鳥居や神殿に注連縄を取り付けていますが、ここではこの「しめかけ石」に注連縄をはり、そこ以外には大きな注連縄を使用しないようです。もっとも、ここの肥前狛犬には小型の注連縄が掛けられていましたが。
 以上、糸島市内の肥前狛犬を見てきましたが、佐賀の肥前狛犬とは一味違ったものにも見えました。砥川の石工がこの地区に住み着いているのですから、その人たちが造ったものでしょう。時代的にも江戸時代半ばごろのものと思われます。違ったところは、狛犬の眼のところが窪んでいるところです。佐賀のものはどちらかと言えば目ははっきりと飛び出したように見えます。ここの石工が意識して佐賀のものと違えたのでしょうか。この地方には砂を かけて狛犬をさする風習が今も見かけられるのですから、とくに江戸時代には眼病持ちの人に撫でられて目のあたりが窪んでしまったとは考えられないでしょうか。

次回は佐々町の芭蕉句碑です
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年10月22日月曜日

156.糸島市の肥前狛犬5

八幡宮(糸島市東)


 この1対2体は、高さが80cm程度ありますから、肥前狛犬としては大型の部類に入ります。

 また、境内の熊野宮とか宮地嶽神社といわれる所には祠の中に小型の肥前狛犬が1対2体あります。



 室内にあるにしては、かなり傷んでいます。

次回は糸島市の肥前狛犬6です





2018年10月15日月曜日

155.糸島市の肥前狛犬4

天満宮(加布里)
 合併して糸島市となる前は、前原町加布里でした。江戸時代にこの辺りに、砥川石工がやって来て、その後住み着いたそうです。天神さんを祭ったこの神社の、階段の下、鳥居のすぐそばに中型の1対2体の肥前狛犬です。


 ア・ウンの一対と分かりますが、雨ざらし日ざらしで、顔の部分はかなり溶けています。
 
 また、階段を上った本殿脇に境内社の天降宮の祠があり、その前に小型の肥前狛犬が1体だけあります。

 本来は1対2体のものでしょうが、現在は1体だけしか残っていません。鳥居傍のものとよく似たものです。

次回は糸島市の肥前狛犬5です






2018年10月8日月曜日

154.糸島市の肥前狛犬3

熊野神社(二丈田中)
 1対2体の大型のものです。
 左の狛犬

右は

 台座には、大正大典記念とありますので、大正3年に建造されたもので、厳密には肥前狛犬とは言えません。糸島には砥川石工が、移住していますので、明治大正と石工の技能が受け継がれています。
 右の狛犬には角があります。ア、ウンの区別は分かりません。白御影石で出来ており、江戸時代より時代が下ったことも分かります。

次回は糸島市の肥前狛犬4です