2018年10月29日月曜日

157.糸島市の肥前狛犬6

託杜(たくしゅ)神社(糸島市多久)
 この神社にも1対2体の肥前狛犬がありますが、1枚の写真に収めることができません。
 北側のものは 

 南側は

 この狛犬は毎年新しく注連縄をかけられてお祭りをされているようです。注連縄と言えばここ糸島の神社には「しめかけ石」と呼ばれるものがあります。

 上の写真の門柱のような立派な石です。これに竹を渡し、注連縄をかけています。佐賀県や長崎県では鳥居や神殿に注連縄を取り付けていますが、ここではこの「しめかけ石」に注連縄をはり、そこ以外には大きな注連縄を使用しないようです。もっとも、ここの肥前狛犬には小型の注連縄が掛けられていましたが。
 以上、糸島市内の肥前狛犬を見てきましたが、佐賀の肥前狛犬とは一味違ったものにも見えました。砥川の石工がこの地区に住み着いているのですから、その人たちが造ったものでしょう。時代的にも江戸時代半ばごろのものと思われます。違ったところは、狛犬の眼のところが窪んでいるところです。佐賀のものはどちらかと言えば目ははっきりと飛び出したように見えます。ここの石工が意識して佐賀のものと違えたのでしょうか。この地方には砂を かけて狛犬をさする風習が今も見かけられるのですから、とくに江戸時代には眼病持ちの人に撫でられて目のあたりが窪んでしまったとは考えられないでしょうか。

次回は佐々町の芭蕉句碑です
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年10月22日月曜日

156.糸島市の肥前狛犬5

八幡宮(糸島市東)


 この1対2体は、高さが80cm程度ありますから、肥前狛犬としては大型の部類に入ります。

 また、境内の熊野宮とか宮地嶽神社といわれる所には祠の中に小型の肥前狛犬が1対2体あります。



 室内にあるにしては、かなり傷んでいます。

次回は糸島市の肥前狛犬6です





2018年10月15日月曜日

155.糸島市の肥前狛犬4

天満宮(加布里)
 合併して糸島市となる前は、前原町加布里でした。江戸時代にこの辺りに、砥川石工がやって来て、その後住み着いたそうです。天神さんを祭ったこの神社の、階段の下、鳥居のすぐそばに中型の1対2体の肥前狛犬です。


 ア・ウンの一対と分かりますが、雨ざらし日ざらしで、顔の部分はかなり溶けています。
 
 また、階段を上った本殿脇に境内社の天降宮の祠があり、その前に小型の肥前狛犬が1体だけあります。

 本来は1対2体のものでしょうが、現在は1体だけしか残っていません。鳥居傍のものとよく似たものです。

次回は糸島市の肥前狛犬5です






2018年10月8日月曜日

154.糸島市の肥前狛犬3

熊野神社(二丈田中)
 1対2体の大型のものです。
 左の狛犬

右は

 台座には、大正大典記念とありますので、大正3年に建造されたもので、厳密には肥前狛犬とは言えません。糸島には砥川石工が、移住していますので、明治大正と石工の技能が受け継がれています。
 右の狛犬には角があります。ア、ウンの区別は分かりません。白御影石で出来ており、江戸時代より時代が下ったことも分かります。

次回は糸島市の肥前狛犬4です







2018年10月1日月曜日

153.糸島市の肥前狛犬2

十六天神社(糸島市二丈武)
 この神社がある二丈武(たけ)の場所は、江戸時代中津藩(大分県)の飛び地として、代官屋敷があったところでした。福岡黒田藩内にあったのです。記録によると秀吉の時代に遡るようです。江戸時代には、飛び地があちこちにあり、対馬の飛び地は前から聞かされていました。


(1)神殿北側の狛犬

 これは完全な肥前狛犬の様式です。

(2)神殿南側の狛犬

 これは肥前狛犬ではありませんね。ただ、前足と後ろ足が繋がっているところは肥前狛犬みたいですが、時代的にも新しいものでしょう。1対とは思われません。
 
 ここに車で着いた時、駐車する場所がなかったので、大きな農家の庭先に停めさせてもらいました。写真を撮り終えて、挨拶に行きましたら、作業小屋のなかに4人分の椅子が用意されていて、お茶とお菓子のご接待を受けたのには驚きました。現在住んでおられるのは池田さんです。代官とはかかわりはないとのことでしたが、広い敷地内の庭の手入れも良く、裕福な農家の印象でした。福岡市の近郊の農家は郊外野菜の栽培が盛んです。帰りには、それぞれにキャベツを2個づつもらいました。お世話になりありがとうございました。

次回は糸島市の肥前狛犬3です