2016年9月26日月曜日

48.松浦市の元寇防塁

星鹿(ほしか)の元寇防塁
 元寇防塁といえば、博多湾沿いのものが有名ですが、福岡市は大都会となり、開発のため古いものはあまり残ってなく、あとから手を加えたのではなかろうかと思えたりします。
 松浦市星鹿の元寇防塁は開発が進まなかったので、昔のままの姿を今だにとどめています。


 無造作に積まれた石垣は、海水をかぶる所とそうでない所では石の色合いが違います。波打ち際では、のんびりと魚釣りをする人もいました。ここら辺の海岸は、どこもそうですが、漂着物がよく見かけられ、その多くのものに、ハングル文字や略字体の漢字(中国語)が見られます。
 この石垣を外見だけを見たら、波消しのためのものだろうと思われますが、この石垣で守られている田畑や民家はありません。石垣の陸地側に行くと、

 樹木のトンネルができています。郷土史家の説明では、「武者走り」ということです。造られてから、やがて1000年になろうかというのにはっきりと続いています。近くにある説明板です。

 ここの地名が「逃の浦」となっているのが、面白いですね。蒙古軍に対して、この武者走りを兵士たちは弓をつがえて、果敢に戦ったことを考えますが、実際には逃げ出していたのでしょうか逃げたのは住民なのでしょうか。この種の防塁跡は松浦市から田平の海岸にかけて他にもいくらか残っているそうですが、陸側から行くには、道らしい道もないので、船から海岸線をたどれば、他の所でも見つかりそうです。


次回はホークス・アイランドとします




 

2016年9月19日月曜日

47.大悲観の大文字の謎に新説

大悲観大文字の謎
 大きな天然の岩に大きな文字を刻んだものとしては、鹿児島の旧薩摩藩の庭園、仙巌園(せんがんえん)にある「千尋厳」が有名ですが、平戸藩内にも「大悲観」という大文字があります。
 平戸藩第10代藩主、松浦熈が文政13年(1830)に小佐々のお茶屋敷があったところの付近に造られたものです。この大文字には1文字に、米1俵が入る大きさだそうです。

 今から180年ほど前に築かれたものです。この文字を書いたのは、殿様の熈公で、独特の書体です。昭和になってから、この岩の左側が割れて熈公の名前の所が、一部欠損しています。彫った後、拓本に採ったものの写真が小佐々の郷土館にありますので、紹介します。

 署名は「肥前守従五位下源朝臣熈」というところをしゃれた文字配列にしています。書いた日付は文政13年8月3日戊子となっています。確かにこの日付は子(ね=ネズミ)の日に当たります。しかし、文政13年は寅(トラ)年です。殿様の周りには祐筆など御付きの者もいて、干支を間違うはずはありません。
 2年前の文政11年の干支は、子年です。この年、長崎でシーボルト事件があった年です。平戸藩に関係がないことはありません。このとき、伊能忠敬が測量して、日本の正確な地図を作っていますが、この地図をシーボルトに渡したことで、責任者の高橋景保らが投獄され、獄死しています。平戸藩はこれらの地図を数枚高橋から受け取っています。
 大悲観とは、大きな慈悲の心で、政治を行う気持ちを表しているとか大悲観音の意味とか言われていますが、高橋らが殺されたことを悲しみ、それの供養塔の意味もあるのではないだろうかと思います。1830年をネズミ年としたのもその意味があると伺えます。
 表向きは、幕府には逆らえないので、しかも禁制の地図を受け取った平戸藩も肝を冷やしていたのではないでしょうか。

次回は松浦市の元寇防塁です
 




2016年9月12日月曜日

46.古川岳遊歩道の漢詩

古川岳の岩に刻まれた漢詩
 佐々町のシンボルのように古川岳の峰が見えています。普通、古川岳と呼んでいますが、城の辻山、三尊岳、金比羅岳などの連峰を総称して古川岳と言っています。

 城の辻山(遠見岳ともいう)の山頂は、戦国時代に平戸方の山城が築かれたところで、柱穴が残っていますが、今ではテレビの送信アンテナが建っています。
 三尊岳の山頂には、平安時代中期、977年に三尊大明神を祭ったのが、現在の三柱神社の始まりだそうです。
 金比羅岳は江戸時代は市ノ瀬村です、明治になってから合併して佐々になりました。これらの山の尾根筋に遊歩道が整備されています。アップダウンの厳しい所で、私もまだ元気なころ、4人組で、往復歩くぞと言って、行ったものの片道で降参しました。登山ブームのころ、30キロの砂袋を背負って、アルプス登山を目指す人たちの練習場に使われたこともありました。
 昭和の初めごろ、テレビ塔のすぐ下の1番札所から、展望台の所の10番札所まで、石仏が置かれ赤い前掛けがつけられています。
          ここからの佐々の町の眺めは非常に良かったのですが、最近は木立が大きくなり、佐々の中心部はあまり見えなくなりました。      1番札所のすぐ横に、「難儀坂」と題する漢詩が岩に刻まれています。

 写真では分かりにくいので、書き写しますと
      段石築来達頂上
      一望千里古川峰
      望眼下佐々町富
      保永久継踵之民
    昭和五四・一月
    作詞 木場部落長
         徳永椙衛(とくなが すぎえ)
と読めます。この漢詩を作詞したのも石工の徳永さんです。私は何度かここを歩いていましたが、これに気付いたのは三度目の時くらいでした。口石の隣部落ですから、調べたらすぐわかりました。早速訪ねて行ったら、詳しい話を伺うことができました。
 徳永さんは農業をしながら、農閑期には石工をされていたのですが、息子さんは牛牧場を営んでおられました。六番札所の所にもう一つ漢詩があると教えてもらい、早速登って行きました。
 こちらは、読み下し文ですから分かり易いです。
       断崖絶壁乾坤を阻む
       難路除かんと欲して巨岩を砕く
       築石の危機を脱し今此処に達す
       巡礼の客僧誰か斯の労苦を知らずや
             一九八〇
                 石工   徳永椙衛

と刻まれています。どちらの漢詩も七言絶句です。徳永さんの話では、子供のころ、兵隊さんからの手紙が、漢文で来ていたので、自分も勉強して返事を出すようにしたことから学んでいったそうです。それで漢詩もできるようになったそうです。
 徳永さんとはその後も訪ねていくようになり、「口石金比羅さん物語」のブログの際、木場の炭鉱の坑口を探し出してもらったときの写真です。

 各札所には、写真のような石仏がおかれていますが、これは2番札所のものです。

 この遊歩道の石段つくりは、徳永さんが54歳から始めて還暦の年に出来上がったのですから、足掛け7年かかったのです。その間はとてもつらく苦しいことだったと、奥さんも話しておられました。
 遊歩道には、この山にある砂岩を利用して階段を造ったそうです。

 最近は訪れる人も少なく、木々も繁って、薄暗い所が多いようです。階段の登り口に、ギンリョウソウも見つけました。

 札所を順番にたどって行けば、10番札所に出ます。ここには展望台がかなり後にできました。江戸時代はここまでが、佐々村です。尾根筋を最後まで歩き下ったところは佐々皿山公園です。

次回は大悲観の大文字の謎、新説とします









2016年9月5日月曜日

45.佐々川河口の渡し場跡

佐々川の渡し場跡
 長崎県で一番長い川である、佐々川は江戸時代後半までは、大型の船が上流まで上っていて、佐々皿山の窯元には、天草の陶石が運ばれていました。どこにも橋が架かっていなかったので、古川には渡し場があり、平戸藩の参勤交代の時も船で渡っていたと記録がありますが、江戸の末期には、地形の変化もあり浅くなり、古川には飛び石が置かれています。200年ほど前頃、伊能忠孝が測量に来た時は、飛び石を渡ったと日記にあります。
 明治に入り、古川橋と佐々橋が架かり便利になりました。しかし、小佐々の人にとっては、佐世保方面に行くとなるとかなり遠回りをしなければならなかったのです。
 現在の見返り橋の少し上流に伝馬船の渡し場があり、戦後も利用されていました。

 佐々側の川縁に少しですが、渡し船に乗り降りするための石が残っています。拡大すると

 以前はもっとあったと、昔、渡し船を営業されていた、宮本さん(口石から分家された)からこれらの石のことを直接聞きました。
 向かい側の小佐々側にはもっと立派な石積の跡が残っています。

 最初の写真の左側にあるのは見返り橋ですが、小佐々町の郷土史によると、昭和32年に架けられたそうです。しかし、松浦鉄道と立体交差する跨線橋ができたのは、昭和40年ですから橋が出来てもバスが通うようになったのは、8年も待たされています。その理由として、佐々側が小佐々の人が佐々の中心部を通らずに佐世保へ行くことに消極的だったと書かれています。

 最近になって、小佐々側には、大型パチンコ屋やホテルもできました。西九州自動車道の佐々インターから近い所なので、立地したのでしょう。それにしても、道路が狭いと思っていたら、小佐々の部分は川を埋め立てて道路を拡張して2年もせずに出来上がるそうです。佐々の古川の所は狭い道路のままで、取り残されてしまいます。

次回は佐々古川岳の岩に刻まれた漢詩です