2018年11月26日月曜日

161.厳木町8(若宮大明神)

若宮大明神(唐津市厳木町天川
 この神社を訪ねたのは2度目です。前回の時は、肥前狛犬は盗難を恐れて町内会長さんが自宅に保存されているということで、お目にかかることができませんでした。今回は永渕さんが神社の氏子総代と連絡を取り、神殿の中に鍵をかけて格納されている肥前狛犬1対2体を見ることができました。


  かなり胴体が長いもので、ア・ウン1対です。以前は屋外の祠のそばに置かれていたので、顔はずいぶん摩耗がひどいものです。神殿の中では、段ボール箱の中に新聞紙にくるまれていてかわいそうでしたが、安心して皆が見えるところに安置されることを期待したいものです。
 厳木町の天川(あまかわ)という所は九州電力の天山揚水発電所があるので、建設工事の頃から時々訪ねたところです。出力60万kwの大きなものです。この神社の近くには、揚水発電所の展示館があり常時開設されていましたが、福島原発のメルトダウン事故以来、日本の原発はすべて停止して、太陽光発電や風力発電が九州内ではずいぶん増えてきました。
 ところが、九州電力が、玄海原発を2基運転を開始しました。最近の報道では、太陽光発電の電力が昼間に余ってしまい、この電力を使うために、揚水発電所を昼間に運転して、下のダムの水を上のダムに汲み上げていると新聞に報道されていました。
 もともと、揚水発電は原発による夜間の余った電力を利用して昼間の需要に応じるためのものでした。九州のように太陽光や山の上や海岸の風力発電に適したところは、これらを増やせば原子力発電は必要ないと思われます。近い将来、原発の廃炉をするときにはものすごい出費がいるでしょうし、廃棄物処分場も決まらないし、将来につけを先送りすることはもうやめてほしいものです。

次回は厳木町の肥前狛犬9です











2018年11月19日月曜日

160.唐津市厳木町の肥前狛犬7

厳木(きゅうらぎ)町の肥前狛犬7
 厳木町の肥前狛犬は以前、6か所紹介しましたので、その続編です。
 この神社も小さくてかわいらしいものがありますが、不用心な所ですから、神社名は伏せます。



 小型のものが、ア・ウン1対2体祠の中に収められています。
デフォルメの効果が見事です。石工のセンスがうかがえます。小さいので、持って帰って飾り物にしようとか、ネットオークションに出せば高く売れそうだと考える人もいるかもしれないので、神社名は出しません。

次回は厳木8です







2018年11月12日月曜日

159.佐世保・相浦港外、高島

高島に行きました
  高島に上陸したのは初めてでした。全国的には「高島」と名が付く島は多いでしょうが、佐世保の高島は相浦町の一部になっているのは、江戸時代もそうでした。以前、船から海釣りを楽しんでいたころは、この高島の回りをずいぶん巡っていました。特に牛ケ首灯台の付近ではクロイオ(メジナ)、やイサキ、アラカブなどが良く釣れていたので再三出かけていて、船の上からは島のたたずまいを眺めるばかりでした。
 上陸して波止場近くの志賀神社を訪ねました。石の鳥居や参道狛犬もありましたが、肥前鳥居や肥前狛犬はありませんでしたが、他ではあまり見かけない、鯨の石像が1体奉納されているのがありました。江戸時代、平戸藩では生月島での捕鯨は有名ですが、高島でも捕れたことがあるようです。

 前回の国勢調査では、島民人口は204という記録がありますが、現在では200人はいないと思われます。この日は「高島まつり」があり、島に渡るフェリーの行だけ無料のサービス(帰りは有料)などもありました。この祭りに合わせてさせぼ健康友の会の人たちと出かけました。

 漁港そばには、特設ステージが造られて、ステージでは相浦にある大学の女子学生3人組が、音楽を流しながら派手なパフォーマンスを繰り広げていました。最近の若者は堂々たるものです。写真はステージを写したので、観客はいませんが、フェリーで来た客が中心でしょうが島民の数よりは多いものでした。我々もステージを見ながら、海鮮味噌汁をどんぶり1杯無料でごちそうになりました。主催者は高島漁協だそうです。
 その後、ウォーキングでしまで最も高い番岳(ばんだけ)に登りました。途中の道路はアスファルト舗装がされているので、電動アシスト自転車の私は歩くよりも楽でした。
 江戸時代末期、黒船が日本近海に出始めたころ、平戸藩はこの山の頂上に「狼煙場」を造り長崎と平戸の連絡用のものです。

 狼煙場の石だけが残っています。資料によると、これらの狼煙による連絡はほとんど機能せず、早船による情報が確実で早かったそうです。
 太平洋戦争の時にはこの狼煙場の少し離れた所に機関砲の基地が造られ、その残骸のコンクリート台座なども見られました。佐世保の山の上の機関砲を空襲に来たグラマンに撃ったけど当たらずに、引き返してきたグラマンに撃ち返されて死んだ兵隊がいたことを聞いたことがあります。何も撃たなければ死なずにすんだにと語り継がれています。
 次に縄文時代から弥生時代の遺跡の「宮ノ本遺跡」に行きました。


























  
 
 この高島では、古墳時代の人骨が数十体発掘されています。ふるくから人類が生活していたものです。
 
 次に、江戸時代の番所の役人の子孫が住んでいる家を訪ねました。庭には大きな銀杏の木があるのが目印です。

  竹邊宗成さんの後ろの建物は江戸時代に建てられたものがそのまま残っているそうです。窓は一切なく板戸を押し上げて外光を入れるようになっています。竹邊さんの家は代々平戸藩の番所役人だったそうで、母屋は改築されていますが、この小屋は手が入れられずにいます。ご先祖の写真も見せていただきました。

 写真の右の人が「竹邊宗八」さんで、ちょんまげを結っているので江戸時代か、明治の初めころのものでしょう。
 
 「石の文化」についてのブログにもかかわらず、今回は島の紹介になりましたが、石の鯨、狼煙場跡の石、宮ノ本遺跡の石棺くらいでした。

次回からはまた肥前狛犬にします












2018年11月5日月曜日

158.佐々町にある芭蕉句碑

佐々町に芭蕉句碑が2つあります
 芭蕉本人は九州には来たことがありません。ですから、佐々町にも来たことはないけど、句碑はあります。 
  個人の敷地内にあるので、場所が特定できる表示は避けることにします。

(1)椎の木・・・の句碑
 芭蕉が奥の細道の旅を終えて、京都の弟子の庵に住んでいた時に詠んだ句として有名です。この場所は京都の嵯峨野にあって、「落柿舎」と呼ばれる草庵ですが、芭蕉の弟子、向井去来のものです。柿の木が数多くあったので名付けられたものですが、敷地内には大きな椎の木もあったそうです。
 そこで、奥の細道の旅から帰ってきたばかりの芭蕉はやっと落ち着いたと思われます。
  「(まず)頼む 椎の木もあり 夏木立」 という句です。長旅を終えた芭蕉のホッとした気持ちがうかがえます。佐々にある句碑は


 この句碑を初めて見たときには、すぐそばに大きくて古い椎の木が立っていて、この椎の木を見て、芭蕉がこの句を詠んだのだろうかと思ったほどでした。しかし、残念ながら、写真を撮りに行ったときは根本から椎の木は折れてしまい片付けられていました。1987年8月30日に平戸瀬戸を通過した台風18号による被害でした。私が経験した最もひどい台風なので記憶も鮮明です。

 椎の木の株の跡です。この場所は江戸時代後期に、平戸藩主松浦熈(ひろむ)公のお茶屋敷として、佐々の金持ちが殿様に献上したもので、重装な門とお茶室そして京都の庭師が造った庭園があり、池には滝から水が落ちるようになっていました。ずいぶん荒れてきましたが、庭園は今も残っています。

 南九州大学の先生が時折、学生を連れてきて、庭園の草取りや剪定などをして、当時の庭園の研究をされています。
 最近では、昔の門、茶室、本宅も取り壊されて、新築された家が建ったり、アパートなども建ち江戸時代の面影を残すものは庭だけになりました。

(2)いざいかむ・・・の句碑
 佐々町のM氏宅の庭にあります。元は(1)先ず頼むの句と同じ場所にあったそうですが、M氏の祖父の代に譲り受けたものだそうです。

 「いさいかむ 雪見にころふ ところまて
 この句は芭蕉の句の中でも有名なものです。芭蕉は推敲の名人と言われています、凡人の私はほとんど推敲をしないし、できません。昔読んだ本でこの句の推敲が何度も行われた経過を見た覚えがありますが、ここにある句碑の句はどれであるか確認していません。
 芭蕉は旅を続けていますが、九州には来ていません。したがって佐々に立ち寄ったこともないのに、この2石碑は誰が、いつ、どんな目的で造られたのかは最初に案内してくれた郷土史家にも何もわからないとのことでした。芭蕉の句碑は全国いたるところにあり、九州にもあります。芭蕉が立ち寄ったところには立派な大きな句碑が立っていて観光名所みたいになっています。佐々にあるものは、江戸時代末期から明治にかけての頃だろうと推定できますが、当時芭蕉句碑建立が流行ったのではないでしょうか。


次回は佐世保市相浦港沖の高島です