2018年5月28日月曜日

135.宇久島の薩摩塔

毘沙門寺の薩摩塔(佐世保市宇久町平)
 宇久島は長崎県の離島、五島列島の北の端にあります。平成の合併までは、北松浦郡宇久町でしたが、佐世保市に合併して佐世保市になりました。江戸時代は五島藩でした。以前、鎮信鳥居(肥前鳥居)を調べていた時には、隣の島の小値賀までは行きましたが、宇久には行っていませんでした。最近になって、薩摩塔があることを聞き、宇久町の郷土誌を読んだら、六地蔵塔もあることも分かり、早速出かけました。
 毘沙門寺は古いお寺ですが、きれいに整備されていました。真言宗のお寺ですが、十数年前に、高野山から派遣された兼平和尚さんご夫婦に会っていろいろお話を聞くことができました。この和尚さんは自分のことを住職とは言わずに、和尚さんというのでこの後の文中で和尚さんと書きます。

 写真の左側の参道に2基の薩摩塔があったそうで、5年ほど前に、立ち寄った人が薩摩塔といったそうで、その後、長崎の石造物の専門家大石一久氏、福岡の井形清氏(「薩摩塔の時空」の著者)、鹿児島大学の先生たち(石を科学的に分析して、薩摩塔を中国の梅園石と特定された)が毘沙門寺のものを中国の石であると分析されたそうです。

 本堂脇の建物の入口に2個の石を重ねて置かれていました。上のは6角で、下のは4角です。というのは本来4角と6角の薩摩塔が2基あったということです。1200年代後半のものですから他の部分は長い年月の間に破損散逸したものと思われます。

 6角のものは6面ありますが、4面だけに神像というか、四天王像というか彫り込まれています。

 4角のものは、基壇と呼ばれる基礎の部分でしょう。他の所も見ましたが、4角と6角を組み合わせたものはありません。ですから、4角と6角の塔が別々にあったものといえます。
 宇久島には平(たいら)と神浦(こうのうら)の二つが大きな集落です。昔栄えていたのは神浦ではなかろうかと和尚さんに聞いたら、確かにそういう人もいたそうですが、この古い薩摩塔が確認されて、平の方が古いと証明されたとのことでした。
 宇久に渡る前に郷土誌で六地蔵塔が5基あることを確認していましたので、和尚さんに尋ねたら案内しましょうと、自分の軽乗用車で六地蔵塔巡りに出掛けることになり、道に迷うこともなく、電動アシスト自転車をフェリーで渡して来ていたけど、ほとんど使わずに楽な宇久島でした。

次回は宇久島の六地蔵塔1です






2018年5月21日月曜日

134.佐賀市福富1031番地の恵比寿さん

佐賀市川副町大字福富1031番地の恵比寿さん
   中学・高校の頃、進学関係の書類を書くとき、必ず本籍地を番地まできちんと書かされていました。私が書いていたのは「佐賀県佐賀郡中川副村大字福富1034番地」でした。いまだにすらすらと書けます。(現在の本籍地は現住所と同じ)
 最近、多久の永渕さんから「佐賀の恵比須台帳」という本をいただきました。

 恵比須DEまちづくりネットワークから平成28年3月に出されたものです。その中の157番目に佐賀市川副町大字福富1031番地に古い恵比須さんの石像が紹介されています。さっそく写真を撮りに行きました。この台帳では現在823基の恵比須さんが台帳に登録されています。

 地元の人はここのことを「お観音様」と呼んでいると1034番地で、生まれ育った二従弟の井上美代子さんから聞きました。現在はいろいろな石像が6体並んでいて、花も飾られてきれいに保存されていますが、回りはコンクリートと舗装道路で固められています。    
 右端のものが恵比須さんです。拡大すると

 右手に鯛を抱えているのはわかりますが、左手に竿があるのかも知れないけど今となっては分かりません。摩耗もあって、顔の表情は分からずかなり古そうです。左足を曲げ、右足を下におろして腰かけたこの形態を「半跏(はんか)」というそうです。最も多い形で、全体の70%はこんな形をしています。
 建造年が分かるものは少なく、江戸時代のもので記銘年が分かるのは、40基ばかりです。古いのはほとんど分からないようです。しかし、現在も造られているそうですが、新しいものには、建立者名や年月日も記されています。
 
 ご先祖のこの本籍地は江戸時代は佐賀藩の本藩領ですが、明治になり戸籍ができたときに、佐賀県佐賀郡福富村150番地でしたが、明治の末には佐賀県佐賀郡中川副村大字福富1034番地となっています。私の祖父井上定太郎は明治12年生まれで、自宅から1軒隣ですから、子供のころから見ていたでしょう。また、曾祖父の安平は文政12年(1829)の生まれで、その父親、曾曾祖父の平七は生没年は不明ですが、平七ひいひいじいちゃんはまだ新しいエビスさんを見ていたのではないでしょうか。場所は移されているかもしれませんが、200年前のご先祖と同じものを見れるとは石の文化のすばらしさをあらためて感じました。

次回からは五島列島の北端・宇久、小値賀の石造物です









2018年5月14日月曜日

133.大川市の肥前狛犬他

風浪宮(ふうろぐう)の肥前狛犬
 この神社は筑紫三郎こと築後川のそばにある古くて由緒のある神社です。神社の横には昔、船着き場があったそうです。海外からやってきたやって来た船の積み荷をここで、川船に積み替えて筑後川をさかのぼり、交易をしていた中継地だったそうです。肥前狛犬は小さいものですが、1対2体あり、宮司さんが屋敷内に大切に保管されています。前もって連絡をしていたので、広間に持ってきて写真を撮らせてもらいました。


宋風獅子
 13世紀ころには、この付近に中国人の商人が住んでいたのでしょう。海外からの貿易船が大川の波止場には横付けされていたのでしょう。

 平戸で見た宋風獅子とは見た目は小さくて、2匹の小獅子がふざけあっているようですが、石としては、中国の梅園石ようにも見えました。鹿児島大学の先生の鑑定はまだやっていないそうです。桐の箱に入れられて大事に保管されています。薩摩塔がないということは、宋風獅子のミニチュアを神社に奉納されたのではないでしょうか。

石造り五重塔


 この五重塔には、正平10年(1355)記年銘があるというのですから古いものです。一体物ではなく各層ごとのものを重ねてあるそうです。神社としては珍しく裕福そうなところでした。

次回は佐賀市福富1031番地の恵比寿さん







2018年5月7日月曜日

132.佐賀市の肥前狛犬9

八幡神社(佐賀市見島町)の肥前狛犬
 この神社名も出せそうです。1対2体です。




 前足を大きく広げて踏ん張っている姿は肥前狛犬としては珍しいものです。長い年月の経過でかなり風化が進んでいます。ア君の口元も割れ、右足は2か所も折れています。

 次回は大川市の風浪宮の肥前鳥居と宋風獅子です