2015年11月23日月曜日

4.浜野家の石垣

濱野家の石垣(佐々町)
  濱野治八(1864-1947)さんが、大正末か昭和初期に建てられた屋敷回りの石垣は丸い石を割って外面は平らに並べて、積み上げられている珍しいものです。屋敷の裏の道路は、江戸時代の平戸街道でアスファルト舗装ですが、昔の広さそのままです。この道は平戸街道ウォーキングでもガイドをしながら通っています。自然石をそのまま使った石垣は、時折見ますが、これだけ面をきれいに揃えたものはありません。皆さん感心して眺めていきます。
 正面から石垣を見ると丸いのによく収まっているのに驚かされます。これを造った石工の技能の高さがうかがえます。規模としてもかなりの大きさです。               
 
  これを上から見たら、丸い石を割っているのがよくわかります。この石は佐世保港外、黒島の横の無人島、伊島(いしま)から持ってきたと聞きました。この島の周りには、数年前までは良く船で魚釣りに行っていたので、海岸には丸い石ばかりあるのを見かけていました。無人島というのは現在のことで、昔は人が住んでいたかも知れません。というのも、船で横を通るとき畑跡と思われる所だろうと言いながら見ていました。黒島から手漕ぎの舟で畑を作りに来たとしても簡単に渡れるくらいのところですから、昔も無人島かも知れません。
 
 石垣の角は四角に割ったものが使われていますが、全体に調和がとれた美しいものです。 
 玄関への入り口は城の石垣のように直角に回らなければなりません。最近はここの門をくぐることはありませんが、佐々町へ引っ越した頃は「浜野医院」の看板が掛かっていました。子供が小さかったので、 濱野治八さんの息子さんが内科の老医師でしたが、よく連れて行っていました。待合室は畳の部屋ははっきり覚えていますが、診察室は板張りか畳か記憶がありません。中に入った印象は、病院というよりは古いお屋敷の座敷に上がるという感じでした。最初に建てられた時のままと思えました。今も変わらないのではないでしょうか。 
 この屋敷の道路を隔てた裏側は曹洞宗の古刹東光寺です。この寺の本尊は「薬師瑠璃光如来」という木像で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、平戸方の陣中で守り本尊として出かけ7年後に無事戻ってきています。 
 
 この寺の本堂は、浜野治八さんが一人で寄進されて、昭和18年に完成した現在のものです。この人は、若いときから小佐々の村長、佐々村会議員、県会議員 をしながら、北松一帯で炭鉱主もしていました。最後に手掛けた鹿町炭鉱(強粘結炭を産出)が大正9年にその鉱区権を当時300万円で八幡製鉄所に買収されて財を成しました。その金で自宅を子孫のために新築し、また、願いがかなったことでお寺も寄進したとのことです(佐々町郷土誌)。浜野家のお墓はこの東光寺の墓地にあり、治八さんの戒名は「北斗院殿東光如雷大居士」とあります。院殿・大居士の付いた戒名は殿様以外で初めて見ました。如雷というのは治八さんは書道達人でその号だそうです。
 
 本堂横の位牌堂には、奥の右側には歴代の住職の位牌が並んでいますが、左側には浜野家の位牌が特別に並べられています。その中でも、最上段に治八さんの位牌が一つあります。住職の話では、この位牌は前の住職が、ボロボロになっていたので新しく作り直されたそうです。昭和22年の品物は、極端に物資が不足していた時ですから、そんなこともあったのでしょう。位牌堂の特別扱いとは裏腹に、浜野家の墓は質素なもので、法名塔もなく、竿石に戒名などがさりげなく刻まれています。

 
  炭坑誌(前川雅夫編)によると「時の政友会代議士の中倉万次郎(佐世保軽便鉄道社長)は、この浜野の努力を気の毒に思いひそかに当時官営燃料探しをしとぃた八幡製鉄所に売り込んだら浜野も助かるだろうと時の長官白仁武に口添えしたので折柄強粘結炭探しに乗り出していたので日鉄買収となり茲に当時の金で300万円という金がころがり込んだ訳である。当時、反対党の憲政会がこれは政治的問題であるとて横槍を入れたが、くつがえすことは出来なかった」とあります。
 佐世保(軽便)鉄道の株主にも浜野治八さんは名を連ねています。
 
次回は吉井南小学校の石垣です
 
 
 
 
 
 
 

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