2018年11月12日月曜日

159.佐世保・相浦港外、高島

高島に行きました
  高島に上陸したのは初めてでした。全国的には「高島」と名が付く島は多いでしょうが、佐世保の高島は相浦町の一部になっているのは、江戸時代もそうでした。以前、船から海釣りを楽しんでいたころは、この高島の回りをずいぶん巡っていました。特に牛ケ首灯台の付近ではクロイオ(メジナ)、やイサキ、アラカブなどが良く釣れていたので再三出かけていて、船の上からは島のたたずまいを眺めるばかりでした。
 上陸して波止場近くの志賀神社を訪ねました。石の鳥居や参道狛犬もありましたが、肥前鳥居や肥前狛犬はありませんでしたが、他ではあまり見かけない、鯨の石像が1体奉納されているのがありました。江戸時代、平戸藩では生月島での捕鯨は有名ですが、高島でも捕れたことがあるようです。

 前回の国勢調査では、島民人口は204という記録がありますが、現在では200人はいないと思われます。この日は「高島まつり」があり、島に渡るフェリーの行だけ無料のサービス(帰りは有料)などもありました。この祭りに合わせてさせぼ健康友の会の人たちと出かけました。

 漁港そばには、特設ステージが造られて、ステージでは相浦にある大学の女子学生3人組が、音楽を流しながら派手なパフォーマンスを繰り広げていました。最近の若者は堂々たるものです。写真はステージを写したので、観客はいませんが、フェリーで来た客が中心でしょうが島民の数よりは多いものでした。我々もステージを見ながら、海鮮味噌汁をどんぶり1杯無料でごちそうになりました。主催者は高島漁協だそうです。
 その後、ウォーキングでしまで最も高い番岳(ばんだけ)に登りました。途中の道路はアスファルト舗装がされているので、電動アシスト自転車の私は歩くよりも楽でした。
 江戸時代末期、黒船が日本近海に出始めたころ、平戸藩はこの山の頂上に「狼煙場」を造り長崎と平戸の連絡用のものです。

 狼煙場の石だけが残っています。資料によると、これらの狼煙による連絡はほとんど機能せず、早船による情報が確実で早かったそうです。
 太平洋戦争の時にはこの狼煙場の少し離れた所に機関砲の基地が造られ、その残骸のコンクリート台座なども見られました。佐世保の山の上の機関砲を空襲に来たグラマンに撃ったけど当たらずに、引き返してきたグラマンに撃ち返されて死んだ兵隊がいたことを聞いたことがあります。何も撃たなければ死なずにすんだにと語り継がれています。
 次に縄文時代から弥生時代の遺跡の「宮ノ本遺跡」に行きました。


























  
 
 この高島では、古墳時代の人骨が数十体発掘されています。ふるくから人類が生活していたものです。
 
 次に、江戸時代の番所の役人の子孫が住んでいる家を訪ねました。庭には大きな銀杏の木があるのが目印です。

  竹邊宗成さんの後ろの建物は江戸時代に建てられたものがそのまま残っているそうです。窓は一切なく板戸を押し上げて外光を入れるようになっています。竹邊さんの家は代々平戸藩の番所役人だったそうで、母屋は改築されていますが、この小屋は手が入れられずにいます。ご先祖の写真も見せていただきました。

 写真の右の人が「竹邊宗八」さんで、ちょんまげを結っているので江戸時代か、明治の初めころのものでしょう。
 
 「石の文化」についてのブログにもかかわらず、今回は島の紹介になりましたが、石の鯨、狼煙場跡の石、宮ノ本遺跡の石棺くらいでした。

次回からはまた肥前狛犬にします












0 件のコメント:

コメントを投稿