2017年9月4日月曜日

97.今福・太田堤の記念碑

太田堤の記念碑(松浦市今福町)
 佐世保史談会発行の郷土誌「談林」に平戸街道ネットワークの会の山口敏幸氏の寄稿文にあった記念碑を見に行ったら、江戸時代末期のものですが、碑文の文字が実に立派なので、取り上げました。

 石碑の文面は、表題はありませんが、4面全部に書かれています。正面の写真を示します。この文字を書いた人の名前も分かっています。樋口周助兼亮とあります。

 拡大するとぼけた映像になりますが

 若いころ書道を少し習っていた時、楷書体の手本として、5世紀にできた中国の石碑「九成宮醴泉銘」の欧陽詢の書を思い出しました。

 この写真は拓本に採ったものをネットから拝借しました。中国では5世紀にはすでに現在の文字が確立していたのですね。

 松浦市今福と言えば、平戸松浦氏の始祖久が「ぎぎが浜」に上陸した地と言われています。今では海水浴場となっていて記念碑も建っています。

 この海岸の上に当たるところに太田堤はあり、現在、浜の脇町内となっています。

 浜の脇公民館に正月明けに行ったら、門松飾りがありました。ここには、松浦市のコミュニティーバスも来ています。
 
  また今福の地には、農地を作るための干拓では、人柱を建てた話や「史都平戸」には今福では農民の逃散が度々記録されています。江戸時代には宗家松浦氏の知行になっていたためか殿様は江戸にいて、悪代官が農民をいじめていたのだろうと考えたりします。

 この碑文は天保6年(1835)、漢文で書かれ、関係者の名前も詳しく書かれており、また松浦家文書でも確認されています。碑文の内容としては、当時庄屋の金子利助という人の功績が述べられています。山口氏の文章を引用しますと
 『碑文は金子利助の農業土木工事に対する才覚と勤勉さ熱意を誉め、太田堤築造工事の功労者であることを最大級の賛辞で誉めている。彼は文政四年(1821)五月今福に着任。翌文政五年より天保元年(1830)」までおよそ9年間太田堤の築造に関わり、調川村へ転勤していく・・・』
 また、文書では金子利助の年俸は8俵というのですから、ごく軽率です。山口氏の文面では『彼の今福に対する功績に報いるため、今福役所から平戸藩に対して徒士組に任じたい旨願いが出されたが、返事はなかった。彼に対する感謝の気持ちが石碑建立に至ったのではないかと思われる』と記されています。

次回は海のふるさと館のライオン像です















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