2016年10月31日月曜日

53.長崎県の肥前狛犬(4)平戸

4.亀岡神社(平戸市)
 亀岡神社には神殿の中に、肥前狛犬がいることを、「肥前狛犬を学ぶ会」の永渕氏から聞いていました。そこで、宮司に電話で確認して、永渕氏と一緒に出掛けました。神殿の中は、奥まったところにあり写真は撮れそうもない所にあるそうです。しかし、末社のお稲荷さんの所に同じものがあるとのことで、案内してもらてやっとわかりました。高校の頃は、神社内をずいぶん歩き回っていたつもりでしたが、宮司に案内されたところは、知らないところばかりでした。

 お稲荷さんの石の祠の前に2体、仲良く並んでいます。
 
 
 ずいぶん苔むしてきていますが、砂岩のようです。顔が扁平で、彫も浅く、今まで見たものと一味違います。
 神殿の中のものは見ることは出来ませんでした。狛犬は神殿を守るもので、神殿にあるのは、神様そのものです。狛犬が神殿の中にいるのは、おかしいのではないかと、若い宮司さんに言ったところ、ずっと前から、こうなっていたので、自分の一存ではどうもできないとのことでした。
 この付近には古い神殿や石の祠も多数残っています。ここは明治になってから、亀岡神社となりましたが、江戸時代には、「霊椿山神社」といって、平戸松浦家の神社があったところです。古い神殿の外に1対古くて小さな狛犬もいました。
 
 
 もしかして、肥前狛犬と思いましたが、永渕氏の説明では、台座があるものは、時代が後のものだそうです。現在のような獅子狛犬に移り変わっていくときの、過程のものかもしれません。
 江戸時代に佐賀の砥川石工が、平戸方面に出稼ぎに行っていたとの記録も残っています。江戸時代の砥川は多久領でしたので、多久の代官に願い出て切手を発行してもらったようです。その一部を記しますと
 ①寛政5年(1793)1月 小城砥川村の石工、五嶋、平戸で仕事をする為に、日数280日の切手を申請する。5人組6人。
 ②寛政10年(1798)8月 砥川谷の百姓佐平次、石細工の為の五嶋と平戸へ罷り越したく往来日数200日を願出る。
 ③寛政13年(1801)3月 砥川村の百姓、平次郎、貞次郎、貞十とその子彦松の4人石細工為五嶋平戸へ出稼したく250日の御切手を願出て、差免され切手を渡される。
 とあります。当時の石工は百姓をしながら、注文があれば石細工をしていたようです。現金収入を得るためには、出稼ぎもしていたようです。
 したがって、平戸や松浦の狛犬も砥川の石工がかかわっていた
ことも考えられます。
 
次回からは諫早方面の肥前狛犬です
 
 
 
 
 
 
 


2016年10月24日月曜日

52.長崎県の肥前狛犬(3)志佐

3.松山神社(松浦市志佐町)
 この神社には、今まで何度も来ていました。最初は、鎮信鳥居(肥前鳥居の旧平戸藩内のもの)を見つけていた時、鳥居は古いものでしたが、明神型でした。六地蔵塔もあり、それを探していた時も来たし、松浦市の郷土史家に記念碑の拓本採りを依頼された時も来ていました、しかし、大きな普通の狛犬があることは知っていましたが、肥前狛犬は佐賀の人に指摘されるまでは全く知らずに、素通りしていたのです。
 右側にいるのが阿形で、少しですが口が開いています。古い鳥居のそばです。

 左側が吽形で、口を閉じています。

 30センチほどの小さなものです。どちらも足をセメントで台座に固定されています。これでは行方不明になることはないでしょう。どのようないきさつで、この肥前狛犬がこの神社にいるのか、不明です。松浦市の文化財に指定されることもなく、郷土史家も知らないのではないでしょうか。石は砂岩ではなく安山岩みたいです。そうすると、小城牛津・砥川の石工が造った可能性もあります。江戸初期ではなく、かなり整った形をしているので、江戸中期頃ではないでしょうか。

次回は平戸の肥前狛犬です






2016年10月17日月曜日

51.長崎県の肥前狛犬(2)調川

2.調川の肥前狛犬
 最近、肥前狛犬は小型であることと、そのユーモラスで独特の風貌から、盗難にもあっています。古物商の店先に出たり、ネットオークションに出されたりもしています。そんなこともあり、場所を特定できる神社名などは、ブログでは発表しないことが多くなってきました。したがって、大丈夫と思われるところ以外は、私も詳しい場所は公表しないことにします。
 ここの狛犬は、参道を登ったら左右に1対2体あります。口を開けた阿(あ)像は

 口を結んだ吽(うん)像は
向き合っていますが、後のは口の所が、壊れているので本来の阿吽は逆なのかもしれません。 

次回は松山神社に行きます
 


2016年10月10日月曜日

50.長崎県の肥前狛犬(1)鷹島 

肥前狛犬について
 神社に行けば、石造物としては、鳥居や灯篭が見られますが、この他に、狛犬もよく見かけます。全国的には、「日本参道狛犬研究会」というのもあり、ファンも多く、会報も隔月に出されています。
 これは、熊野神社(佐々町)のものですが、一般的に参道に置かれ、参道狛犬ともいわれますが、獅子狛犬とも呼ばれています。狛犬の中でも、肥前狛犬は佐賀県を中心に長崎、福岡県にもいくらかありますので、紹介していきます。
 肥前と名が付く石造物は肥前鳥居と肥前狛犬だけです。これらの石像物を造ったのは、現在の佐賀県小城市砥川(とがわ)の石工集団です。時代としては安土桃山~江戸時代中期までの、160年間と言われています。

 長崎県では、数が少なく、普通の人が見ることもなく、肥前狛犬との認識がありません。佐賀県には「肥前狛犬を学ぶ会」という団体もあります。早速この会に入会して勉強を始めました。

1.住吉神社(松浦市鷹島)
 元寇の島、石の島、そしてホークスアイランド。この島には、やはり肥前狛犬もいました。由緒ある住吉神社です。

 本殿の奥の神殿を守るように、右側に3体、左に2体、小さいものです。それぞれを見ますと、右側の小さい方から
 
 
 
 これらは、砂岩製で、小さいものの高さは、20センチほど、大きいものでも、40センチくらいです。左側のは


 こちらの石は、鷹島産の玄武岩かも知れません。これらの5体はコンクリートで固定されています。海岸からあまり離れていないので、風で飛ばされて壊れないためか、最近肥前狛犬が盗まれることがあるので、その予防でしょうか。
 いずれも独特の風貌をしており、肥前狛犬は同じものはないといわれています。鼻の孔に土ハチが巣を作っているのもユーモラスです。普通、狛犬は1対2体で奉納されていますが、ここに5体あるのは、昔は3対6体だったのかも知れません。境内には昔の本殿、神殿も残されていて、移転に際して移されたときに、このような配置になったのでしょうが、本来は、1対のものを左右に向き合わせたものです。 

次回は調川の肥前狛犬です。





2016年10月3日月曜日

49.ホークス・アイランド(鷹島)

ホークス優勝モニュメント
 古い石像物ばかり紹介してきましたが、ここで新しいものを出します。
 鷹島と言えば鎌倉時代に、元寇の襲来で無人の島になったこともある歴史もあります。戦国時代から、江戸時代に玄武岩の良質の石材が産出され、石の島として現在も続いています。
 平成21年には、鷹島肥前大橋が架かり、離島とはいえなくなりました。
 鷹島側から肥前町(唐津市)を望んだ鷹島肥前大橋です。

 これを記念して、松浦市と福岡ソフトバンクホークス総合交流宣言がされました。
 そして、鷹島の「モンゴル村」の一角に、ソフトバンクホークスの優勝記念モニュメントが建てられました。





 中央の「必勝」の大きな文字は、上手ではありませんが、王貞治会長の揮毫です。これには、「勝鷹」「勝利の風が吹く島鷹島」なども彫られています。
 左側には「守鷹」「長崎県」とあり、右側には「攻鷹」「松浦市」と彫られています。このモニュメントに使われている石の台座は、鷹島産の玄武岩ですが、鷹のモニュメントは真っ白い石ですから鷹島産ではありませんが、南国の日差しに輝き、まぶしいものです。この横には、王会長、秋山監督他、主力選手の手形も名前入りで彫られています。


 あまりに石の表面がきれいに磨かれているので、カメラを構えた私まで、写ってしまいました。地元の石工が腕によりをかけて仕上げたものでしょう。
 鷹島は元寇と石とホークスの他にも漁業も盛んなところで、その中心は、阿翁浦です。一時は日本一のトラフグの生産地でしたが、ホルマリンを使ったことから、信用を落としました。風力発電機の塔には「日本一のフグ」と書かれていましたが、今はフグの所は消されています。

 鷹島で食べるものは、何といっても魚です。トラフグもいつでもありますが、私のお薦めは、漁師飯の「オトコ飯」です。これはどんぶり飯にたっぷりの刺身が載り、ごま醤油をかけて食べます。何か所かありますが、海上屋台三軒屋もおすすめです。
 岸壁からの道板は少し揺れますが大丈夫です。

次回からは、肥前狛犬をシリーズで紹介します。




 

2016年9月26日月曜日

48.松浦市の元寇防塁

星鹿(ほしか)の元寇防塁
 元寇防塁といえば、博多湾沿いのものが有名ですが、福岡市は大都会となり、開発のため古いものはあまり残ってなく、あとから手を加えたのではなかろうかと思えたりします。
 松浦市星鹿の元寇防塁は開発が進まなかったので、昔のままの姿を今だにとどめています。


 無造作に積まれた石垣は、海水をかぶる所とそうでない所では石の色合いが違います。波打ち際では、のんびりと魚釣りをする人もいました。ここら辺の海岸は、どこもそうですが、漂着物がよく見かけられ、その多くのものに、ハングル文字や略字体の漢字(中国語)が見られます。
 この石垣を外見だけを見たら、波消しのためのものだろうと思われますが、この石垣で守られている田畑や民家はありません。石垣の陸地側に行くと、

 樹木のトンネルができています。郷土史家の説明では、「武者走り」ということです。造られてから、やがて1000年になろうかというのにはっきりと続いています。近くにある説明板です。

 ここの地名が「逃の浦」となっているのが、面白いですね。蒙古軍に対して、この武者走りを兵士たちは弓をつがえて、果敢に戦ったことを考えますが、実際には逃げ出していたのでしょうか逃げたのは住民なのでしょうか。この種の防塁跡は松浦市から田平の海岸にかけて他にもいくらか残っているそうですが、陸側から行くには、道らしい道もないので、船から海岸線をたどれば、他の所でも見つかりそうです。


次回はホークス・アイランドとします




 

2016年9月19日月曜日

47.大悲観の大文字の謎に新説

大悲観大文字の謎
 大きな天然の岩に大きな文字を刻んだものとしては、鹿児島の旧薩摩藩の庭園、仙巌園(せんがんえん)にある「千尋厳」が有名ですが、平戸藩内にも「大悲観」という大文字があります。
 平戸藩第10代藩主、松浦熈が文政13年(1830)に小佐々のお茶屋敷があったところの付近に造られたものです。この大文字には1文字に、米1俵が入る大きさだそうです。

 今から180年ほど前に築かれたものです。この文字を書いたのは、殿様の熈公で、独特の書体です。昭和になってから、この岩の左側が割れて熈公の名前の所が、一部欠損しています。彫った後、拓本に採ったものの写真が小佐々の郷土館にありますので、紹介します。

 署名は「肥前守従五位下源朝臣熈」というところをしゃれた文字配列にしています。書いた日付は文政13年8月3日戊子となっています。確かにこの日付は子(ね=ネズミ)の日に当たります。しかし、文政13年は寅(トラ)年です。殿様の周りには祐筆など御付きの者もいて、干支を間違うはずはありません。
 2年前の文政11年の干支は、子年です。この年、長崎でシーボルト事件があった年です。平戸藩に関係がないことはありません。このとき、伊能忠敬が測量して、日本の正確な地図を作っていますが、この地図をシーボルトに渡したことで、責任者の高橋景保らが投獄され、獄死しています。平戸藩はこれらの地図を数枚高橋から受け取っています。
 大悲観とは、大きな慈悲の心で、政治を行う気持ちを表しているとか大悲観音の意味とか言われていますが、高橋らが殺されたことを悲しみ、それの供養塔の意味もあるのではないだろうかと思います。1830年をネズミ年としたのもその意味があると伺えます。
 表向きは、幕府には逆らえないので、しかも禁制の地図を受け取った平戸藩も肝を冷やしていたのではないでしょうか。

次回は松浦市の元寇防塁です