亀岡神社には神殿の中に、肥前狛犬がいることを、「肥前狛犬を学ぶ会」の永渕氏から聞いていました。そこで、宮司に電話で確認して、永渕氏と一緒に出掛けました。神殿の中は、奥まったところにあり写真は撮れそうもない所にあるそうです。しかし、末社のお稲荷さんの所に同じものがあるとのことで、案内してもらてやっとわかりました。高校の頃は、神社内をずいぶん歩き回っていたつもりでしたが、宮司に案内されたところは、知らないところばかりでした。
お稲荷さんの石の祠の前に2体、仲良く並んでいます。
ずいぶん苔むしてきていますが、砂岩のようです。顔が扁平で、彫も浅く、今まで見たものと一味違います。
神殿の中のものは見ることは出来ませんでした。狛犬は神殿を守るもので、神殿にあるのは、神様そのものです。狛犬が神殿の中にいるのは、おかしいのではないかと、若い宮司さんに言ったところ、ずっと前から、こうなっていたので、自分の一存ではどうもできないとのことでした。
この付近には古い神殿や石の祠も多数残っています。ここは明治になってから、亀岡神社となりましたが、江戸時代には、「霊椿山神社」といって、平戸松浦家の神社があったところです。古い神殿の外に1対古くて小さな狛犬もいました。
もしかして、肥前狛犬と思いましたが、永渕氏の説明では、台座があるものは、時代が後のものだそうです。現在のような獅子狛犬に移り変わっていくときの、過程のものかもしれません。
江戸時代に佐賀の砥川石工が、平戸方面に出稼ぎに行っていたとの記録も残っています。江戸時代の砥川は多久領でしたので、多久の代官に願い出て切手を発行してもらったようです。その一部を記しますと
①寛政5年(1793)1月 小城砥川村の石工、五嶋、平戸で仕事をする為に、日数280日の切手を申請する。5人組6人。
②寛政10年(1798)8月 砥川谷の百姓佐平次、石細工の為の五嶋と平戸へ罷り越したく往来日数200日を願出る。
③寛政13年(1801)3月 砥川村の百姓、平次郎、貞次郎、貞十とその子彦松の4人石細工為五嶋平戸へ出稼したく250日の御切手を願出て、差免され切手を渡される。
とあります。当時の石工は百姓をしながら、注文があれば石細工をしていたようです。現金収入を得るためには、出稼ぎもしていたようです。
したがって、平戸や松浦の狛犬も砥川の石工がかかわっていた
ことも考えられます。
次回からは諫早方面の肥前狛犬です
0 件のコメント:
コメントを投稿