2016年9月19日月曜日

47.大悲観の大文字の謎に新説

大悲観大文字の謎
 大きな天然の岩に大きな文字を刻んだものとしては、鹿児島の旧薩摩藩の庭園、仙巌園(せんがんえん)にある「千尋厳」が有名ですが、平戸藩内にも「大悲観」という大文字があります。
 平戸藩第10代藩主、松浦熈が文政13年(1830)に小佐々のお茶屋敷があったところの付近に造られたものです。この大文字には1文字に、米1俵が入る大きさだそうです。

 今から180年ほど前に築かれたものです。この文字を書いたのは、殿様の熈公で、独特の書体です。昭和になってから、この岩の左側が割れて熈公の名前の所が、一部欠損しています。彫った後、拓本に採ったものの写真が小佐々の郷土館にありますので、紹介します。

 署名は「肥前守従五位下源朝臣熈」というところをしゃれた文字配列にしています。書いた日付は文政13年8月3日戊子となっています。確かにこの日付は子(ね=ネズミ)の日に当たります。しかし、文政13年は寅(トラ)年です。殿様の周りには祐筆など御付きの者もいて、干支を間違うはずはありません。
 2年前の文政11年の干支は、子年です。この年、長崎でシーボルト事件があった年です。平戸藩に関係がないことはありません。このとき、伊能忠敬が測量して、日本の正確な地図を作っていますが、この地図をシーボルトに渡したことで、責任者の高橋景保らが投獄され、獄死しています。平戸藩はこれらの地図を数枚高橋から受け取っています。
 大悲観とは、大きな慈悲の心で、政治を行う気持ちを表しているとか大悲観音の意味とか言われていますが、高橋らが殺されたことを悲しみ、それの供養塔の意味もあるのではないだろうかと思います。1830年をネズミ年としたのもその意味があると伺えます。
 表向きは、幕府には逆らえないので、しかも禁制の地図を受け取った平戸藩も肝を冷やしていたのではないでしょうか。

次回は松浦市の元寇防塁です
 




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