海寺跡
平戸市田平町の桟橋近くの、海寺はいかにも古そうなたたずまいをしています。廃寺になっているのですが、屋敷はそのまま残っていて、昔の住職の子孫の方が現在お住まいです。
春になると木蓮の巨古木には、真っ白な花が咲き、テレビなどマスコミでも紹介されるので、見物人も多いようです。元々、神仏混淆の所ですから、敷地の奥まったところには、お堂は今もあります。この辺りは大木や南国を思わせるビロー樹なども生い茂り昼なお、薄暗く、石畳の所には、役の行者「役小角」が護摩壇を作り修行をしたとの説明書きがあります。ここには、薩摩塔2基と宋風獅子も2基あったとのことですが、これらは現在、田平町の里田原の資料館に移され展示保存されています。
(1)展示されているもの
これを見ても何か良く分かりません。右側が薩摩塔(部分)で、左側が宋風獅子とのことですが、どちらも石が割れて原型をとどめていません。
(2)収蔵庫の中のもの
収蔵庫の中に入って写真を撮ることができました。
これが薩摩塔で、次のが宋風獅子とのことですが
収蔵庫の中のものは、塔を立てることができないので、横にして置かれていました。上の写真では、右が薩摩塔の部分、左は宋風獅子のお尻の辺と思われます。
ここには、ばらばらになったもの4基分を持って来ていて、十分には検証がされていないようです。専門家にきっちりと復元していただきたいものです。
次回は下寺観音堂です
2016年8月15日月曜日
2016年8月8日月曜日
41.薩摩塔(7)誓願寺
誓願寺の墓地にある薩摩塔
平戸市戸石川町の誓願寺には六地蔵塔が数多くあるので、何度も写真を撮りに来ていました。特に3メートルを超える非常に高い六地蔵塔は珍しいものでした。そこの墓地の一画にありました。
古い五輪塔の残欠などを寄せ集めたところで、右側のは、無縫塔ですから坊さんの墓でしょう。この薩摩塔も全部は揃ってなく、専門家は須弥壇上部と塔身のみと説明されています。
かなり小さいものですから、探すのに苦労しました。周りを考えたら、元々ここにあったものかどうか分かりませんが、別の所にあったものを片付けたという感じがします。
次回は海寺跡の薩摩塔です
平戸市戸石川町の誓願寺には六地蔵塔が数多くあるので、何度も写真を撮りに来ていました。特に3メートルを超える非常に高い六地蔵塔は珍しいものでした。そこの墓地の一画にありました。
古い五輪塔の残欠などを寄せ集めたところで、右側のは、無縫塔ですから坊さんの墓でしょう。この薩摩塔も全部は揃ってなく、専門家は須弥壇上部と塔身のみと説明されています。
かなり小さいものですから、探すのに苦労しました。周りを考えたら、元々ここにあったものかどうか分かりませんが、別の所にあったものを片付けたという感じがします。
次回は海寺跡の薩摩塔です
2016年8月1日月曜日
40.薩摩塔(6)御堂前
松浦史料館横の御堂前の薩摩塔
この付近は、通称、お部屋の坂と呼ばれていて、歴代の殿様の側室が住んでいたところです。
この付近は、通称、お部屋の坂と呼ばれていて、歴代の殿様の側室が住んでいたところです。
この御堂には観光用にでしょう、新しい標識がつけられていて、按針坂と書かれています。この坂の上あたりに、三浦按針(英国人、ウイリアム・アダムス)の墓があります。
ここには、六地蔵もあり、以前にも写真を撮りに来ていたけど薩摩塔があることには気づきませんでした。
薩摩塔と六地蔵は並んであります。薩摩塔だけを拡大しますと
何かわからない石の塊です。専門家の説明では、「須弥壇軸部以下のみ」とありますので、薩摩塔の一部分だけとなります。
次回は誓願寺にある薩摩塔です
2016年7月25日月曜日
39.薩摩塔(5)館山是興寺跡
館山是興寺跡の薩摩塔
是興寺跡は松浦史料博物館の上の段の藪の中です。古い墓地が数基ある中に、平戸松浦家15代松浦定(さだむ・肥州公)の墓と言われるものの所に、この薩摩塔があります。
今では荒れた墓地です。この荒れ方を見ると、平戸藩では、9代・10代の藩主の時、家世伝を編集して、昔の殿様の墓を建てたりしていますので、その時に建てられたものかも知れません。
五輪の塔が定公の墓で、左隣に小型の薩摩塔がありました。拡大したら
現在の平戸中学校のすぐ下の段です。近道のためか、藪の中に細い道ができています。中学生がタバコを吸うときに使っているとも聞きました。
それにしても、殿様の墓に薩摩塔があるのは他では見られません。薩摩塔の研究者の論文では、日本に住み着いた中国人商人が、中国から取り寄せて祭ったものらしいと書かれているので少し違和感を感じます。
次回は御堂前の薩摩塔です
是興寺跡は松浦史料博物館の上の段の藪の中です。古い墓地が数基ある中に、平戸松浦家15代松浦定(さだむ・肥州公)の墓と言われるものの所に、この薩摩塔があります。
今では荒れた墓地です。この荒れ方を見ると、平戸藩では、9代・10代の藩主の時、家世伝を編集して、昔の殿様の墓を建てたりしていますので、その時に建てられたものかも知れません。
五輪の塔が定公の墓で、左隣に小型の薩摩塔がありました。拡大したら
現在の平戸中学校のすぐ下の段です。近道のためか、藪の中に細い道ができています。中学生がタバコを吸うときに使っているとも聞きました。
それにしても、殿様の墓に薩摩塔があるのは他では見られません。薩摩塔の研究者の論文では、日本に住み着いた中国人商人が、中国から取り寄せて祭ったものらしいと書かれているので少し違和感を感じます。
次回は御堂前の薩摩塔です
2016年7月18日月曜日
38.薩摩塔(4)桜渓書院跡
桜渓書院跡にあった薩摩塔
桜渓書院とは平戸藩の資料の中では見たことがないものでした。平戸市戸石川町の最教寺の近くにあったもので、記念碑などがあります。
これには、「桜渓書院跡」と篆書体で書かれています。書いた人は、松浦陞(すすむ)とありますから、平戸藩の最後の藩主、詮(あきら)の孫になる人です。平戸藩校の維新館や猶興館は知っていますが、桜渓書院は知りませんでした。いつ頃のものでしょうか。
この場所には現在アパートが建ち、駐車場の端に記念碑はあり、その傍に薩摩塔もあったそうですが、今は、生月町の博物館「島の館」の収蔵室に保存され展示はされていません。
島の館の学芸員の方に手続の後、写真に撮らせてもらいました。個人の所有物とのことです。桜渓書院についても調べることが出てきました。桜渓書院跡にはこんな風にあったそうです。
次回は肥州公墓地の薩摩塔です
桜渓書院とは平戸藩の資料の中では見たことがないものでした。平戸市戸石川町の最教寺の近くにあったもので、記念碑などがあります。
これには、「桜渓書院跡」と篆書体で書かれています。書いた人は、松浦陞(すすむ)とありますから、平戸藩の最後の藩主、詮(あきら)の孫になる人です。平戸藩校の維新館や猶興館は知っていますが、桜渓書院は知りませんでした。いつ頃のものでしょうか。
この場所には現在アパートが建ち、駐車場の端に記念碑はあり、その傍に薩摩塔もあったそうですが、今は、生月町の博物館「島の館」の収蔵室に保存され展示はされていません。
島の館の学芸員の方に手続の後、写真に撮らせてもらいました。個人の所有物とのことです。桜渓書院についても調べることが出てきました。桜渓書院跡にはこんな風にあったそうです。
次回は肥州公墓地の薩摩塔です
2016年7月11日月曜日
37.薩摩塔(3)安満岳山頂
安満岳山頂の薩摩塔
安満岳は平戸島で最も高い山(530m)で、信仰の対象にされていました。神仏混淆の神社と寺があったそうですが、明治の初めに廃仏毀釈で、神社だけが残っています。
高校1年の時、学校林の手入れということで、1度歩いて行ったことがありましたが、ずいぶんと遠い所で、着いたらほとんど作業はせずに、弁当を食ったらすぐに帰ってきたように思います。学校としても、生徒に作業をさせる気もなかったようで、道具もありませんでした。
しかし、今は稜線の左端、鯛の鼻は公園として整備され舗装道路が伸びています。ここからの眺めはなかなかないいものです。途中にある駐車場に車を止めて、緩やかな傾斜を歩けば、安満岳山頂は楽にたどり着きます。頂上にはこんな祠が祭ってあります。
左の塔は数年前までは、謎でしたが、薩摩塔と言われてみれば納得できます。近寄って見ると
次回は桜渓書院跡にあった薩摩塔です
安満岳は平戸島で最も高い山(530m)で、信仰の対象にされていました。神仏混淆の神社と寺があったそうですが、明治の初めに廃仏毀釈で、神社だけが残っています。
高校1年の時、学校林の手入れということで、1度歩いて行ったことがありましたが、ずいぶんと遠い所で、着いたらほとんど作業はせずに、弁当を食ったらすぐに帰ってきたように思います。学校としても、生徒に作業をさせる気もなかったようで、道具もありませんでした。
しかし、今は稜線の左端、鯛の鼻は公園として整備され舗装道路が伸びています。ここからの眺めはなかなかないいものです。途中にある駐車場に車を止めて、緩やかな傾斜を歩けば、安満岳山頂は楽にたどり着きます。頂上にはこんな祠が祭ってあります。
左の塔は数年前までは、謎でしたが、薩摩塔と言われてみれば納得できます。近寄って見ると
専門家の論文では、薩摩塔が2基あるそうです。私には1基にしか見えませんが、下にある残欠がもう一つのものでしょうか。次回は桜渓書院跡にあった薩摩塔です
2016年7月4日月曜日
36.薩摩塔(2)志々伎神社中宮
志々伎神社中宮の薩摩塔
志々伎神社は下から、沖の宮、中宮そして志々伎山の頂上に上の宮があります。石の祠があるだけですが。
志々伎神社は下から、沖の宮、中宮そして志々伎山の頂上に上の宮があります。石の祠があるだけですが。
写真のように、見る角度によって少し違いはありますが、頂上は岩盤で、狭い居場所しかありませんが、五島や壱岐の島も見えます。名山として、九州100名山に入れられていましたが、その後新百名山として長崎県代表で入りました。ただ近頃登っても、黄砂やPM2.5の粒子がひどく遠望が利かなくなったのが残念です。高さが、347mと低山なので、海の色の変化が良く分かり、魚の大群が移動する魚影も見ることができます。
志々伎神社中宮が現在もお祭りが行われ、立派な社が建てられていますが、少し外れに古中宮と呼ばれている、廃墟みたいな所もあります。現在の中宮には幅の広い石段が取り付けられていて、江戸時代の平戸藩主が参拝に来ていたのだそうですから、古中宮はかなり昔に使われなくなったみたいです。現在、志々伎神社中宮までは、車で行けます。登山者のための駐車場もあります。前置きが長くなりました。
(2)志々伎神社中宮、6角薩摩塔
志々伎神社中宮とはいえ、駐車場と中宮の中間ぐらいのところで、古い墓の宝篋印塔や五輪の塔などもあります。
(3)志々伎神社中宮、4角薩摩塔
ここには、薩摩塔と呼ばれるものが、2基あります。いずれも、欠損があり、完形ではありませんが、それなりの風格があります。この4角のほうには、拓本を採ったら、中国の年代らしいのが出てきたと、著者の井形氏は述べられていましたが、私には全く文字とは見えないので、ここでは紹介しません。
次回は安満岳山頂の薩摩塔
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