神浦郷向地蔵堂の六地蔵塔
大きな木があるところにあったと、和尚さんに連れて行ってもらいました。神浦郷の向(むかい)地蔵堂で、宇久島新四国第20番札所と書かれています。
回りには他にもいろんな石仏が寄せ集められています。
ここの六地蔵さんは近くの住民から大切にされているようです。 もう一か所、郷土誌に記載されている『神浦郷 平利男の畑、享保16年(1731)の記銘名年あり』を探すために、神浦郵便局により、『平利男』さんのことを聞きましたが、年配の局長さんによると、この方の一家はずいぶん前に島を離れたそうです。親切な局長さんはあちこち親戚にあたる人の所へ電話をされて尋ねられましたが、今では、『平利男』さんの消息を知っている人もなく、畑も探すことは出来ませんでした。
和尚さんは宇久島のことは今では島で一番詳しいだろうとおっしゃって、帰り道で、石のアーチ橋へも寄りました。
夏草が繁っていてはっきりとは分かりにくいですが、確かにアーチの石が見えます。明治時代に建造されたものだそうです。現在はすぐ横に橋と道路が造られそこを通るので、全く利用はされていませんが、昔は本通りだったと思われます。
途中で、肥前型の鳥居を見た気がするとのことで、神社の鳥居も何か所も見ましたが、やはり、明神型のものばかりでした。
和尚さんの車で回ったので、狭い島の中はあっという間に済んでしまいました。和尚さんには本当にお世話になりました。予約していた民宿に入るのも早すぎるので、もしかして、肥前狛犬はなかろうかと一人自転車で主な神社を見て回りましたが、どこにも見つかりませんでした。
次回は小値賀島を巡ります
2018年7月2日月曜日
2018年6月25日月曜日
139.宇久島の六地蔵4
本飯良郷古里墓地内の六地蔵塔
宇久島の西部地区の本飯良郷の墓地内にありました。
墓地には最近の新しい墓がきれいに立ち並んでいます。
入口に近い所です。車は和尚さんのものです。
宝珠と笠はなくなっています。中台が逆さまになっています、ということはこの塔は倒れたことがあり、修復の時に逆の方が座りがいいので間違って組み立てられたのでしょう。笠がないので、龕部の傷み方がひどいものです。
竿には文化15年(1818)と郷土誌には記載がありますが、現在では全く文字を読み取ることは出来ません。
次回は宇久島の六地蔵塔5です
宇久島の西部地区の本飯良郷の墓地内にありました。
墓地には最近の新しい墓がきれいに立ち並んでいます。
入口に近い所です。車は和尚さんのものです。
宝珠と笠はなくなっています。中台が逆さまになっています、ということはこの塔は倒れたことがあり、修復の時に逆の方が座りがいいので間違って組み立てられたのでしょう。笠がないので、龕部の傷み方がひどいものです。
竿には文化15年(1818)と郷土誌には記載がありますが、現在では全く文字を読み取ることは出来ません。
次回は宇久島の六地蔵塔5です
2018年6月18日月曜日
138.宇久島の六地蔵3
木場郷の六地蔵
ここの六地蔵さんは郷土誌に記載がありません。和尚さんが木場にもあったと連れて行ってもらいました。
宇久島の六地蔵で、標識があるのはここだけでした。道路が三叉路になっているところで、昔風に言えば、追分でしょう。
砂岩製の六地蔵さんはずいぶんと傷んでいて、文字などは一切読めません。記年銘がないので郷土誌には記載がなかったのでしょうか。宝珠が載せられていますが、これは五輪塔のものですから、近くにころがっていたのを粗末にならないようにと高い所に乗せたのでしょう。
ここの六地蔵さんは郷土誌に記載がありません。和尚さんが木場にもあったと連れて行ってもらいました。
宇久島の六地蔵で、標識があるのはここだけでした。道路が三叉路になっているところで、昔風に言えば、追分でしょう。
砂岩製の六地蔵さんはずいぶんと傷んでいて、文字などは一切読めません。記年銘がないので郷土誌には記載がなかったのでしょうか。宝珠が載せられていますが、これは五輪塔のものですから、近くにころがっていたのを粗末にならないようにと高い所に乗せたのでしょう。
2018年6月11日月曜日
137.宇久島の六地蔵塔2
飯良郷墓地入り口の六地蔵塔
墓地入り口左側にありました。
龕部と竿がつながった形になっています。単制とも思えますが、塔の形式(重制)ともいえます。
苔が生えて表面の文字は読めませんが、郷土誌には安永7年(1778)と記されていて、郷土誌編さんの頃は文字が読めていたようですが、年号以外では読めないところが多いようです。
次回は宇久島の六地蔵3です
墓地入り口左側にありました。
龕部と竿がつながった形になっています。単制とも思えますが、塔の形式(重制)ともいえます。
苔が生えて表面の文字は読めませんが、郷土誌には安永7年(1778)と記されていて、郷土誌編さんの頃は文字が読めていたようですが、年号以外では読めないところが多いようです。
次回は宇久島の六地蔵3です
2018年6月4日月曜日
136.宇久島の六地蔵塔1
長崎県北の六地蔵塔について
私の著書「日本の西の端から」2014年7月発行時点で154基の六地蔵塔を紹介して、その後探し出した分については、ブログ「六地蔵塔探し回り記」で、2016年4月10日に174基を出して終わっています。今回、宇久・小値賀で探し出した分を追加します。
小浜郷中村堂ン山(どんやま)の六地蔵塔
和尚さんの車で出かけて、ほんの少し話をしていたら、ここですよと言われ車を降りてキョロキョロしてもそれらしいのは分かりません。指さされてやっとわかりました。灌木の茂みの中に隠れるようにありました。
椿の小枝などを折り、何とか全体が見えるようにして、写真を撮りました。
肥前型のしっかりしたものです。文字も何か書いてあるのは分かりますが、表面に苔が生えて全く読めません。水とたわしがあれば読めそうです。
郷土誌によると建立年は寛文4年(1664)と記されていますがそれ以上詳しいことは良く分かりません。宇久島の六地蔵の中では最も古いものと言われています。
次回は宇久島の六地蔵塔2です
http://inouejun1saza.blogspot.jp/
私の著書「日本の西の端から」2014年7月発行時点で154基の六地蔵塔を紹介して、その後探し出した分については、ブログ「六地蔵塔探し回り記」で、2016年4月10日に174基を出して終わっています。今回、宇久・小値賀で探し出した分を追加します。
小浜郷中村堂ン山(どんやま)の六地蔵塔
和尚さんの車で出かけて、ほんの少し話をしていたら、ここですよと言われ車を降りてキョロキョロしてもそれらしいのは分かりません。指さされてやっとわかりました。灌木の茂みの中に隠れるようにありました。
椿の小枝などを折り、何とか全体が見えるようにして、写真を撮りました。
肥前型のしっかりしたものです。文字も何か書いてあるのは分かりますが、表面に苔が生えて全く読めません。水とたわしがあれば読めそうです。
郷土誌によると建立年は寛文4年(1664)と記されていますがそれ以上詳しいことは良く分かりません。宇久島の六地蔵の中では最も古いものと言われています。
次回は宇久島の六地蔵塔2です
http://inouejun1saza.blogspot.jp/
2018年5月28日月曜日
135.宇久島の薩摩塔
毘沙門寺の薩摩塔(佐世保市宇久町平)
宇久島は長崎県の離島、五島列島の北の端にあります。平成の合併までは、北松浦郡宇久町でしたが、佐世保市に合併して佐世保市になりました。江戸時代は五島藩でした。以前、鎮信鳥居(肥前鳥居)を調べていた時には、隣の島の小値賀までは行きましたが、宇久には行っていませんでした。最近になって、薩摩塔があることを聞き、宇久町の郷土誌を読んだら、六地蔵塔もあることも分かり、早速出かけました。
毘沙門寺は古いお寺ですが、きれいに整備されていました。真言宗のお寺ですが、十数年前に、高野山から派遣された兼平和尚さんご夫婦に会っていろいろお話を聞くことができました。この和尚さんは自分のことを住職とは言わずに、和尚さんというのでこの後の文中で和尚さんと書きます。
写真の左側の参道に2基の薩摩塔があったそうで、5年ほど前に、立ち寄った人が薩摩塔といったそうで、その後、長崎の石造物の専門家大石一久氏、福岡の井形清氏(「薩摩塔の時空」の著者)、鹿児島大学の先生たち(石を科学的に分析して、薩摩塔を中国の梅園石と特定された)が毘沙門寺のものを中国の石であると分析されたそうです。
本堂脇の建物の入口に2個の石を重ねて置かれていました。上のは6角で、下のは4角です。というのは本来4角と6角の薩摩塔が2基あったということです。1200年代後半のものですから他の部分は長い年月の間に破損散逸したものと思われます。
6角のものは6面ありますが、4面だけに神像というか、四天王像というか彫り込まれています。
4角のものは、基壇と呼ばれる基礎の部分でしょう。他の所も見ましたが、4角と6角を組み合わせたものはありません。ですから、4角と6角の塔が別々にあったものといえます。
宇久島には平(たいら)と神浦(こうのうら)の二つが大きな集落です。昔栄えていたのは神浦ではなかろうかと和尚さんに聞いたら、確かにそういう人もいたそうですが、この古い薩摩塔が確認されて、平の方が古いと証明されたとのことでした。
宇久に渡る前に郷土誌で六地蔵塔が5基あることを確認していましたので、和尚さんに尋ねたら案内しましょうと、自分の軽乗用車で六地蔵塔巡りに出掛けることになり、道に迷うこともなく、電動アシスト自転車をフェリーで渡して来ていたけど、ほとんど使わずに楽な宇久島でした。
次回は宇久島の六地蔵塔1です
宇久島は長崎県の離島、五島列島の北の端にあります。平成の合併までは、北松浦郡宇久町でしたが、佐世保市に合併して佐世保市になりました。江戸時代は五島藩でした。以前、鎮信鳥居(肥前鳥居)を調べていた時には、隣の島の小値賀までは行きましたが、宇久には行っていませんでした。最近になって、薩摩塔があることを聞き、宇久町の郷土誌を読んだら、六地蔵塔もあることも分かり、早速出かけました。
毘沙門寺は古いお寺ですが、きれいに整備されていました。真言宗のお寺ですが、十数年前に、高野山から派遣された兼平和尚さんご夫婦に会っていろいろお話を聞くことができました。この和尚さんは自分のことを住職とは言わずに、和尚さんというのでこの後の文中で和尚さんと書きます。
写真の左側の参道に2基の薩摩塔があったそうで、5年ほど前に、立ち寄った人が薩摩塔といったそうで、その後、長崎の石造物の専門家大石一久氏、福岡の井形清氏(「薩摩塔の時空」の著者)、鹿児島大学の先生たち(石を科学的に分析して、薩摩塔を中国の梅園石と特定された)が毘沙門寺のものを中国の石であると分析されたそうです。
本堂脇の建物の入口に2個の石を重ねて置かれていました。上のは6角で、下のは4角です。というのは本来4角と6角の薩摩塔が2基あったということです。1200年代後半のものですから他の部分は長い年月の間に破損散逸したものと思われます。
6角のものは6面ありますが、4面だけに神像というか、四天王像というか彫り込まれています。
4角のものは、基壇と呼ばれる基礎の部分でしょう。他の所も見ましたが、4角と6角を組み合わせたものはありません。ですから、4角と6角の塔が別々にあったものといえます。
宇久島には平(たいら)と神浦(こうのうら)の二つが大きな集落です。昔栄えていたのは神浦ではなかろうかと和尚さんに聞いたら、確かにそういう人もいたそうですが、この古い薩摩塔が確認されて、平の方が古いと証明されたとのことでした。
宇久に渡る前に郷土誌で六地蔵塔が5基あることを確認していましたので、和尚さんに尋ねたら案内しましょうと、自分の軽乗用車で六地蔵塔巡りに出掛けることになり、道に迷うこともなく、電動アシスト自転車をフェリーで渡して来ていたけど、ほとんど使わずに楽な宇久島でした。
次回は宇久島の六地蔵塔1です
2018年5月21日月曜日
134.佐賀市福富1031番地の恵比寿さん
佐賀市川副町大字福富1031番地の恵比寿さん
中学・高校の頃、進学関係の書類を書くとき、必ず本籍地を番地まできちんと書かされていました。私が書いていたのは「佐賀県佐賀郡中川副村大字福富1034番地」でした。いまだにすらすらと書けます。(現在の本籍地は現住所と同じ)
最近、多久の永渕さんから「佐賀の恵比須台帳」という本をいただきました。
恵比須DEまちづくりネットワークから平成28年3月に出されたものです。その中の157番目に佐賀市川副町大字福富1031番地に古い恵比須さんの石像が紹介されています。さっそく写真を撮りに行きました。この台帳では現在823基の恵比須さんが台帳に登録されています。
地元の人はここのことを「お観音様」と呼んでいると1034番地で、生まれ育った二従弟の井上美代子さんから聞きました。現在はいろいろな石像が6体並んでいて、花も飾られてきれいに保存されていますが、回りはコンクリートと舗装道路で固められています。
右端のものが恵比須さんです。拡大すると
右手に鯛を抱えているのはわかりますが、左手に竿があるのかも知れないけど今となっては分かりません。摩耗もあって、顔の表情は分からずかなり古そうです。左足を曲げ、右足を下におろして腰かけたこの形態を「半跏(はんか)」というそうです。最も多い形で、全体の70%はこんな形をしています。
建造年が分かるものは少なく、江戸時代のもので記銘年が分かるのは、40基ばかりです。古いのはほとんど分からないようです。しかし、現在も造られているそうですが、新しいものには、建立者名や年月日も記されています。
ご先祖のこの本籍地は江戸時代は佐賀藩の本藩領ですが、明治になり戸籍ができたときに、佐賀県佐賀郡福富村150番地でしたが、明治の末には佐賀県佐賀郡中川副村大字福富1034番地となっています。私の祖父井上定太郎は明治12年生まれで、自宅から1軒隣ですから、子供のころから見ていたでしょう。また、曾祖父の安平は文政12年(1829)の生まれで、その父親、曾曾祖父の平七は生没年は不明ですが、平七ひいひいじいちゃんはまだ新しいエビスさんを見ていたのではないでしょうか。場所は移されているかもしれませんが、200年前のご先祖と同じものを見れるとは石の文化のすばらしさをあらためて感じました。
次回からは五島列島の北端・宇久、小値賀の石造物です
中学・高校の頃、進学関係の書類を書くとき、必ず本籍地を番地まできちんと書かされていました。私が書いていたのは「佐賀県佐賀郡中川副村大字福富1034番地」でした。いまだにすらすらと書けます。(現在の本籍地は現住所と同じ)
最近、多久の永渕さんから「佐賀の恵比須台帳」という本をいただきました。
恵比須DEまちづくりネットワークから平成28年3月に出されたものです。その中の157番目に佐賀市川副町大字福富1031番地に古い恵比須さんの石像が紹介されています。さっそく写真を撮りに行きました。この台帳では現在823基の恵比須さんが台帳に登録されています。
地元の人はここのことを「お観音様」と呼んでいると1034番地で、生まれ育った二従弟の井上美代子さんから聞きました。現在はいろいろな石像が6体並んでいて、花も飾られてきれいに保存されていますが、回りはコンクリートと舗装道路で固められています。
右端のものが恵比須さんです。拡大すると
右手に鯛を抱えているのはわかりますが、左手に竿があるのかも知れないけど今となっては分かりません。摩耗もあって、顔の表情は分からずかなり古そうです。左足を曲げ、右足を下におろして腰かけたこの形態を「半跏(はんか)」というそうです。最も多い形で、全体の70%はこんな形をしています。
建造年が分かるものは少なく、江戸時代のもので記銘年が分かるのは、40基ばかりです。古いのはほとんど分からないようです。しかし、現在も造られているそうですが、新しいものには、建立者名や年月日も記されています。
ご先祖のこの本籍地は江戸時代は佐賀藩の本藩領ですが、明治になり戸籍ができたときに、佐賀県佐賀郡福富村150番地でしたが、明治の末には佐賀県佐賀郡中川副村大字福富1034番地となっています。私の祖父井上定太郎は明治12年生まれで、自宅から1軒隣ですから、子供のころから見ていたでしょう。また、曾祖父の安平は文政12年(1829)の生まれで、その父親、曾曾祖父の平七は生没年は不明ですが、平七ひいひいじいちゃんはまだ新しいエビスさんを見ていたのではないでしょうか。場所は移されているかもしれませんが、200年前のご先祖と同じものを見れるとは石の文化のすばらしさをあらためて感じました。
次回からは五島列島の北端・宇久、小値賀の石造物です
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