2017年9月18日月曜日

99.大村市龍福寺跡の薩摩塔

大村の薩摩塔
 大村市は不思議なところで、戦国時代から以前の遺跡と思われるものは、かなりあるのですが、江戸時代のものはさっぱり見当たりません。
 日本最初のキリシタン大名といわれる、大村純忠の時代に寺院や神社それにかかわるものも、ひどくぶち壊したらしく、あってもみすぼらしいものです。この薩摩塔が残っている「福重地区」には七山十坊と呼ばれる17もの寺院があったそうですが、江戸時代には全くなくなり、明治以降に建てられたお寺がいくらか現在は見られます。中世以前の龍福寺跡に薩摩塔の残欠が残っていました。

 薩摩塔の後ろの石塔には「當寺中興」の文字が残っており、当時の名残が偲べます。写真を拡大すると

 中国風の武者の陽刻は分かります。硬い石の特徴で、ひび割れが入っています。鹿児島大学の先生が石のサンプルを持ち帰り、詳しく調べられたら、中国の梅園石と一致したとこの家のご主人から伺いました。
 大村市のこの辺りは大村湾に面しており、13世紀のころには、交易港もあり中国人の商人もいて、この中国人が本国からこの塔を取り寄せて、先祖の供養をしていたのではなかろうかと思われます。

  この辺りは、ビニールハウスの農地が多く、果樹や花の栽培が盛んで豊かな農地を感じました。

次回は大村の東光寺跡の石塔です  







2017年9月11日月曜日

98.海のふるさと館のライオン像

海のふるさと館のライオン像
 松浦市の道の駅「海のふるさと館」には立派なライオンの石像ががあります。新しいので注目されることはありませんが、年数が経てば風格も出てくるでしょう。向かって左側がア像、右がウン像と狛犬の様式を踏襲しています。

 この、道の駅は農産物もありますが、何といっても海産物、特に近海物の新鮮な魚が豊富です。夏場にはシャッパ(全国的にはシャコと呼ぶ)が水揚げされているので、多量に買ってきて湯がいて食べると旨いものです。

 この石像は、真っ白い花崗岩製で、2007年4月1日、東洋水産株式会社 贈 と刻まれています。

 辺りは広い駐車場のそばの芝生公園になっています。海岸もすぐ近くですから、気候が良いときは家族連れで遊んでいる人たちを見ます。

次回は大村市龍福寺跡の薩摩塔です







2017年9月4日月曜日

97.今福・太田堤の記念碑

太田堤の記念碑(松浦市今福町)
 佐世保史談会発行の郷土誌「談林」に平戸街道ネットワークの会の山口敏幸氏の寄稿文にあった記念碑を見に行ったら、江戸時代末期のものですが、碑文の文字が実に立派なので、取り上げました。

 石碑の文面は、表題はありませんが、4面全部に書かれています。正面の写真を示します。この文字を書いた人の名前も分かっています。樋口周助兼亮とあります。

 拡大するとぼけた映像になりますが

 若いころ書道を少し習っていた時、楷書体の手本として、5世紀にできた中国の石碑「九成宮醴泉銘」の欧陽詢の書を思い出しました。

 この写真は拓本に採ったものをネットから拝借しました。中国では5世紀にはすでに現在の文字が確立していたのですね。

 松浦市今福と言えば、平戸松浦氏の始祖久が「ぎぎが浜」に上陸した地と言われています。今では海水浴場となっていて記念碑も建っています。

 この海岸の上に当たるところに太田堤はあり、現在、浜の脇町内となっています。

 浜の脇公民館に正月明けに行ったら、門松飾りがありました。ここには、松浦市のコミュニティーバスも来ています。
 
  また今福の地には、農地を作るための干拓では、人柱を建てた話や「史都平戸」には今福では農民の逃散が度々記録されています。江戸時代には宗家松浦氏の知行になっていたためか殿様は江戸にいて、悪代官が農民をいじめていたのだろうと考えたりします。

 この碑文は天保6年(1835)、漢文で書かれ、関係者の名前も詳しく書かれており、また松浦家文書でも確認されています。碑文の内容としては、当時庄屋の金子利助という人の功績が述べられています。山口氏の文章を引用しますと
 『碑文は金子利助の農業土木工事に対する才覚と勤勉さ熱意を誉め、太田堤築造工事の功労者であることを最大級の賛辞で誉めている。彼は文政四年(1821)五月今福に着任。翌文政五年より天保元年(1830)」までおよそ9年間太田堤の築造に関わり、調川村へ転勤していく・・・』
 また、文書では金子利助の年俸は8俵というのですから、ごく軽率です。山口氏の文面では『彼の今福に対する功績に報いるため、今福役所から平戸藩に対して徒士組に任じたい旨願いが出されたが、返事はなかった。彼に対する感謝の気持ちが石碑建立に至ったのではないかと思われる』と記されています。

次回は海のふるさと館のライオン像です















2017年8月28日月曜日

96.諫早の眼鏡橋

諫早の眼鏡橋

 現在の眼鏡橋は川にはありません。昭和32年の諫早大水害の時、この橋が丈夫で流されなかったため、上流から流されてきた材木、その他のものがせき止められて、ダムのようになり、水が市街地へあふれ出し、大水害になったといわれています。
 昭和32年は私は高校1年で、諫早とは何も関係ないはずでしたが、小学校6年の時の仲良しの友人が、中学校卒業後、農業実修生として、来ていて水害直後に詳しい手紙をもらっていました。その後も会ったときには、水害後の後片付けの時の生々しい被害状況も話で聞いていました。
 水害後、この橋は取り壊されそうになりましたが、諫早市民の要望もあり現在の地ー諫早公園に移転されて元通りの石組がされました。


 近頃は娘や孫たちもいるので、諫早には時々、出かけていき、この公園付近を散策することもあります。市民の憩いの場となっているようです。

 書きそびれそうになったので、忘れないうちに、書きますが、橋の下を流れていた川は「本明(ほんみょう)川」で、建造されたのは、天保10年(1839)ですから、長崎の眼鏡橋からすると200年くらい遅かったようです。

次回は今福・太田堤の記念碑です






2017年8月21日月曜日

95.長崎の眼鏡橋

長崎の眼鏡橋(めがねばし)
 写真を撮った日は、ランタンフェスティバルの提灯飾りがつけられていました。




 長崎市の中心地、中島川に架かる、石造りアーチ橋として日本最古のものです。この橋以外で昔のものが残っているのはないでしょうから、日本最古の橋でしょう。説明板が読みづらいと思いますので、主なところを書きます。
 寛永11年(1669)、興福寺の中国人僧「黙子(もくす)禅師」によって架けられたものです。この付近は寺町といい、他にも大きなお寺がたくさんあります。寺と町を行き来するために他にも橋は架けられて現在も残っていますが、2連アーチの姿が川に映る姿はめがねのように見えるので、明治になり正式に眼鏡橋と名付けられたそうです。写真の撮り方が悪くて眼鏡に見えないのが残念です。
 この橋は三百数十年この地にあり、何度も水害に見舞われましたが、少しの損害は受けても、手直しをして現在も立派に人々の役に立っています。私が知っている昭和57年の長崎大水害の時も中島川沿いには大きな被害が出ましたが、この橋は流されることはありませんでした。
 今では長崎観光名所の一つです。川の水際には石づくりの遊歩道も整備されています。

次は諫早の眼鏡橋です






2017年8月14日月曜日

94.平戸の石橋

平戸のアーチ石橋 
 平戸にはアーチ石橋が5つあったそうですが、現在残っているのは3か所だけです。

(1)幸橋(さいわいばし)通称オランダ橋
 

 平戸市役所の玄関口に架かっています。説明文は

 元禄15年(1702)に架けたものです。以前には木の橋が架かっていたのを石橋にしたものだそうです。平戸藩第5代藩主棟(たかし)公の時です。
 この場所は平戸城と城下を結ぶ要衝の地でしたが、現在も市役所や警察署などもあり平戸市の中心地です。
 この橋を作った石工はこれより100年ほど前に、平戸にあったオランダ商館を造った人の技術を受け継いだといわれています。最近復元されたオランダ商館の入り口には、石のアーチが見られます。「史都平戸」によると、オランダ商館が平戸に設置されたのは1609年、1617年オランダ商館増築、常灯鼻築造とあります。当時石を組み合わせてアーチ型にして強い構造物を作る技術は日本にはなくて、オランダ人の指導によって出来たものでしょう。その時習得した日本人の石工がずっと受け継いでいたと思われます。
 この橋は鏡川が平戸湾への河口に当たるところですから、当時としては、大きな橋で潮流にも難儀したことでしょう。そこで、平戸の石工たちは約四分の一ほどの大きさのアーチ石橋を上流に実験的に造ったものが残っています。

(2)法音寺橋(ほうおんじばし)


 ここにあった法音寺は今ではありませんが、アーチの石橋は立派に残っています。オランダ橋の直前に架けられたものでしょう。

(3)誓願寺橋
 六地蔵塔や薩摩塔を調べるために、何度も足を運んだ誓願寺の入り口に架かっています。前の二つのものより後になって造られたようです。
 

 これらの三つの橋の石組をよく見たら、明治以降の石橋やトンネルの石組で見られる、アーチの頂点の要石(かなめいし)がないことです。誓願寺橋はアーチにひずみや隙間が出ていますので、大きな水が出た場合には流されるかもしれません。オランダ橋は国指定の建造物になっていて、昭和50年代には全ての石を番号を打って取り外し、防塩処理をして組みなおしたと聞いています。これはコンクリート橋よりずっと長持ちすることでしょう。

次回は長崎の眼鏡橋です





2017年8月7日月曜日

93.佐々町の参道狛犬

佐々町の参道狛犬
 肥前狛犬のことばかり書いていたら、近くのお寺の前住職の奥さんが書いておられるブログに、剪定をしたら、獅子狛犬が見つかったとあったので早速見に行きました。

(1)正福寺(佐々町口石)



 向かって右側が、ア像、左がウン像です。奉納者は大徳榮盛、明治38年11月です。
 ここは真宗の寺ですが、獅子狛犬が1対あるのが不思議です。奉納者の大徳家は神田(こうだ)で、この寺の檀徒ではないそう、寺でも大徳家の子孫の人もなぜここにあるか分からないそうです。

(2)八幡神社(神田)
 この神社には神主さんは常駐はしていませんが、神田町内会の人たちが熱心に守っています、今も境内の工事のために業者が入り整備されています。狛犬は新旧2対、4体の参道狛犬がいます。古い方から



 ア像の口は少し欠けていますが、健在です。奉納者は大徳榮盛、明治38年11月ですから、正福寺のものと同時です。姿かたちも同じに見えます、明治38年ということは日露戦争の戦勝記念ということではないでしょうか。大徳さんが同じものを2対同じ石工に注文したのでしょうが、石工の名前は彫られていません。
 新しいものは


 平成27年11月、奉納者は小川良考とあります。小川さんは近くの会社の社長さんだそうです。この場所は拝殿の前で、以前ここに古い狛犬がいて、新しいのが来た時に参道の鳥居の所へ移されたそうです。古いのは先代狛犬となったのです。

(3)熊野神社(松瀬)
 この神社には友田神主さんが代々継がれ、現在17代だそうです。
 


 この鳥居は元文4年(1739)ですから、佐々では2番目に古いものですが、しっかり立っています。額は明治になり書き直されたものでしょう。
 右側のアの狛犬から

 奉納者は大徳榮盛、明治40年9月です。これで大徳榮盛さんが奉納した獅子狛犬が佐々に5体残っています。曾孫に当たる子孫の人に話を聞きましたが、祖父の話として、自宅から見えるところは全てうちの土地だとのことでした。

 左側のウン像は

 奉納者は橋川廣三、明治41年3月ですから、アとウンでは半年の時差があり、奉納者も違います。他では見かけないことです。
 橋川廣三の子孫(曾孫)の橋川隆さんに話を聞くことができました。祖父から聞いた話として、曾祖父が熊野神社に狛犬を奉納されたそうですが、曾祖父の名前は廣三郎が本当だそうです。
 
 知り合いの17代宮司に聞いたら、近くの鎌倉神社から持ってきて合祀している、焼き物の狛犬があるとのことで早速写真を撮りました。

 拝殿内の神殿に上がる両側に1対2体あります。右側ア像は上顎が少し欠けていますが

 ウン像の背中には何か入れたのでしょうか、取り外せるようになっています。


 この焼き物の狛犬は、加藤民吉が造ったものと伝承されているそうです。加藤民吉とは江戸時代後半、尾張の瀬戸から磁器の製法を学ぶために、佐々皿山に潜り込み、磁器焼きの窯つくりも含めてすべて学び取り、瀬戸に帰り、今でいう「瀬戸物」の始まりとなりました。瀬戸市の神社には「磁祖」の神様として祭られている人です。
 今となっては確かな証拠はありませんが、民吉が修行した皿山のすぐそばの鎌倉神社に奉納されていたもので、平成23年に熊野神社に移されています。

(4)三柱神社(里)
 起源は貞元2年(997)平安時代中頃という古い神社ですから、参道狛犬もいるだろうと行ってみましたが、全くありません宮司さんに聞いたら、木造の狛犬ならありますとのことでした。
 

 狛犬の場合石像よりも木彫の方が古いものですから、この拝殿入り口両側にあるものは、かなり古そうでしたが、神社には何も記録がないそうです。のみで削ったあとも鮮やかなものです。

次回は平戸の石橋です