2016年9月12日月曜日

46.古川岳遊歩道の漢詩

古川岳の岩に刻まれた漢詩
 佐々町のシンボルのように古川岳の峰が見えています。普通、古川岳と呼んでいますが、城の辻山、三尊岳、金比羅岳などの連峰を総称して古川岳と言っています。

 城の辻山(遠見岳ともいう)の山頂は、戦国時代に平戸方の山城が築かれたところで、柱穴が残っていますが、今ではテレビの送信アンテナが建っています。
 三尊岳の山頂には、平安時代中期、977年に三尊大明神を祭ったのが、現在の三柱神社の始まりだそうです。
 金比羅岳は江戸時代は市ノ瀬村です、明治になってから合併して佐々になりました。これらの山の尾根筋に遊歩道が整備されています。アップダウンの厳しい所で、私もまだ元気なころ、4人組で、往復歩くぞと言って、行ったものの片道で降参しました。登山ブームのころ、30キロの砂袋を背負って、アルプス登山を目指す人たちの練習場に使われたこともありました。
 昭和の初めごろ、テレビ塔のすぐ下の1番札所から、展望台の所の10番札所まで、石仏が置かれ赤い前掛けがつけられています。
          ここからの佐々の町の眺めは非常に良かったのですが、最近は木立が大きくなり、佐々の中心部はあまり見えなくなりました。      1番札所のすぐ横に、「難儀坂」と題する漢詩が岩に刻まれています。

 写真では分かりにくいので、書き写しますと
      段石築来達頂上
      一望千里古川峰
      望眼下佐々町富
      保永久継踵之民
    昭和五四・一月
    作詞 木場部落長
         徳永椙衛(とくなが すぎえ)
と読めます。この漢詩を作詞したのも石工の徳永さんです。私は何度かここを歩いていましたが、これに気付いたのは三度目の時くらいでした。口石の隣部落ですから、調べたらすぐわかりました。早速訪ねて行ったら、詳しい話を伺うことができました。
 徳永さんは農業をしながら、農閑期には石工をされていたのですが、息子さんは牛牧場を営んでおられました。六番札所の所にもう一つ漢詩があると教えてもらい、早速登って行きました。
 こちらは、読み下し文ですから分かり易いです。
       断崖絶壁乾坤を阻む
       難路除かんと欲して巨岩を砕く
       築石の危機を脱し今此処に達す
       巡礼の客僧誰か斯の労苦を知らずや
             一九八〇
                 石工   徳永椙衛

と刻まれています。どちらの漢詩も七言絶句です。徳永さんの話では、子供のころ、兵隊さんからの手紙が、漢文で来ていたので、自分も勉強して返事を出すようにしたことから学んでいったそうです。それで漢詩もできるようになったそうです。
 徳永さんとはその後も訪ねていくようになり、「口石金比羅さん物語」のブログの際、木場の炭鉱の坑口を探し出してもらったときの写真です。

 各札所には、写真のような石仏がおかれていますが、これは2番札所のものです。

 この遊歩道の石段つくりは、徳永さんが54歳から始めて還暦の年に出来上がったのですから、足掛け7年かかったのです。その間はとてもつらく苦しいことだったと、奥さんも話しておられました。
 遊歩道には、この山にある砂岩を利用して階段を造ったそうです。

 最近は訪れる人も少なく、木々も繁って、薄暗い所が多いようです。階段の登り口に、ギンリョウソウも見つけました。

 札所を順番にたどって行けば、10番札所に出ます。ここには展望台がかなり後にできました。江戸時代はここまでが、佐々村です。尾根筋を最後まで歩き下ったところは佐々皿山公園です。

次回は大悲観の大文字の謎、新説とします









2016年9月5日月曜日

45.佐々川河口の渡し場跡

佐々川の渡し場跡
 長崎県で一番長い川である、佐々川は江戸時代後半までは、大型の船が上流まで上っていて、佐々皿山の窯元には、天草の陶石が運ばれていました。どこにも橋が架かっていなかったので、古川には渡し場があり、平戸藩の参勤交代の時も船で渡っていたと記録がありますが、江戸の末期には、地形の変化もあり浅くなり、古川には飛び石が置かれています。200年ほど前頃、伊能忠孝が測量に来た時は、飛び石を渡ったと日記にあります。
 明治に入り、古川橋と佐々橋が架かり便利になりました。しかし、小佐々の人にとっては、佐世保方面に行くとなるとかなり遠回りをしなければならなかったのです。
 現在の見返り橋の少し上流に伝馬船の渡し場があり、戦後も利用されていました。

 佐々側の川縁に少しですが、渡し船に乗り降りするための石が残っています。拡大すると

 以前はもっとあったと、昔、渡し船を営業されていた、宮本さん(口石から分家された)からこれらの石のことを直接聞きました。
 向かい側の小佐々側にはもっと立派な石積の跡が残っています。

 最初の写真の左側にあるのは見返り橋ですが、小佐々町の郷土史によると、昭和32年に架けられたそうです。しかし、松浦鉄道と立体交差する跨線橋ができたのは、昭和40年ですから橋が出来てもバスが通うようになったのは、8年も待たされています。その理由として、佐々側が小佐々の人が佐々の中心部を通らずに佐世保へ行くことに消極的だったと書かれています。

 最近になって、小佐々側には、大型パチンコ屋やホテルもできました。西九州自動車道の佐々インターから近い所なので、立地したのでしょう。それにしても、道路が狭いと思っていたら、小佐々の部分は川を埋め立てて道路を拡張して2年もせずに出来上がるそうです。佐々の古川の所は狭い道路のままで、取り残されてしまいます。

次回は佐々古川岳の岩に刻まれた漢詩です







2016年8月29日月曜日

44.薩摩塔(10)多久市の妙覚寺

妙覚寺(多久市南多久町桐野)
 佐賀県には、数多くの石仏など石像の宝庫です。肥前狛犬の研究家と知り合いになり、薩摩塔も紹介していただきました。
 妙覚寺には肥前狛犬もいましたが。薩摩塔も2基ありました。(1)屋根と台座(これは他のものか)は苔むしています。


(2)
 こちらも、台座は宝篋印塔のものを、借用しているようです。これらは、肥前狛犬を見にきて、出合った薩摩塔です。
 他にも、長崎県では、大村市にも薩摩塔は1基あるそうですが、出かけたときに写真が撮れれば紹介します。
 九州の西側、長崎、佐賀、福岡、鹿児島県にだけ薩摩塔はあり、現在40基ほどが知られています。

次回は佐々川の河口に残る渡し場跡の石を書きます






2016年8月22日月曜日

43.薩摩塔(9)下寺観音堂

下寺観音堂(平戸市田平町下寺)
 なだらかな農地が広がる田園地帯の観音堂は、最近になって、きれいに整備されています。その一角に薩摩塔が2基ありました。
(1)大きいもの

 須弥壇の下部が欠落していますが、屋根部がきちんとしているのは珍しいものです。

(2)小さいもの
 こちらは、塔らしく、上に他の寄せ集め物を載せていますが、これらは薩摩塔とは関係ないものでしょう。下の塔身のみは本物でしょう。
 これで、平戸市内9か所、13基の薩摩塔と3基の宋風獅子の紹介は終わりますが、県内では大村市に薩摩塔の残欠があると報告されていますが、機会があれば写真を撮りに行きます。

次回は佐賀県多久市の薩摩塔です



2016年8月15日月曜日

42.薩摩塔(8)海寺跡

海寺跡
 平戸市田平町の桟橋近くの、海寺はいかにも古そうなたたずまいをしています。廃寺になっているのですが、屋敷はそのまま残っていて、昔の住職の子孫の方が現在お住まいです。
 春になると木蓮の巨古木には、真っ白な花が咲き、テレビなどマスコミでも紹介されるので、見物人も多いようです。元々、神仏混淆の所ですから、敷地の奥まったところには、お堂は今もあります。この辺りは大木や南国を思わせるビロー樹なども生い茂り昼なお、薄暗く、石畳の所には、役の行者「役小角」が護摩壇を作り修行をしたとの説明書きがあります。ここには、薩摩塔2基と宋風獅子も2基あったとのことですが、これらは現在、田平町の里田原の資料館に移され展示保存されています。

(1)展示されているもの



 これを見ても何か良く分かりません。右側が薩摩塔(部分)で、左側が宋風獅子とのことですが、どちらも石が割れて原型をとどめていません。

(2)収蔵庫の中のもの
 収蔵庫の中に入って写真を撮ることができました。

 これが薩摩塔で、次のが宋風獅子とのことですが

 収蔵庫の中のものは、塔を立てることができないので、横にして置かれていました。上の写真では、右が薩摩塔の部分、左は宋風獅子のお尻の辺と思われます。
 ここには、ばらばらになったもの4基分を持って来ていて、十分には検証がされていないようです。専門家にきっちりと復元していただきたいものです。

次回は下寺観音堂です





2016年8月8日月曜日

41.薩摩塔(7)誓願寺

誓願寺の墓地にある薩摩塔
 平戸市戸石川町の誓願寺には六地蔵塔が数多くあるので、何度も写真を撮りに来ていました。特に3メートルを超える非常に高い六地蔵塔は珍しいものでした。そこの墓地の一画にありました。
 古い五輪塔の残欠などを寄せ集めたところで、右側のは、無縫塔ですから坊さんの墓でしょう。この薩摩塔も全部は揃ってなく、専門家は須弥壇上部と塔身のみと説明されています。
 かなり小さいものですから、探すのに苦労しました。周りを考えたら、元々ここにあったものかどうか分かりませんが、別の所にあったものを片付けたという感じがします。

次回は海寺跡の薩摩塔です







2016年8月1日月曜日

40.薩摩塔(6)御堂前

松浦史料館横の御堂前の薩摩塔
 この付近は、通称、お部屋の坂と呼ばれていて、歴代の殿様の側室が住んでいたところです。

  この御堂には観光用にでしょう、新しい標識がつけられていて、按針坂と書かれています。この坂の上あたりに、三浦按針(英国人、ウイリアム・アダムス)の墓があります。
 ここには、六地蔵もあり、以前にも写真を撮りに来ていたけど薩摩塔があることには気づきませんでした。
 
  薩摩塔と六地蔵は並んであります。薩摩塔だけを拡大しますと
 
  何かわからない石の塊です。専門家の説明では、「須弥壇軸部以下のみ」とありますので、薩摩塔の一部分だけとなります。
 
次回は誓願寺にある薩摩塔です