古川岳の岩に刻まれた漢詩
佐々町のシンボルのように古川岳の峰が見えています。普通、古川岳と呼んでいますが、城の辻山、三尊岳、金比羅岳などの連峰を総称して古川岳と言っています。
城の辻山(遠見岳ともいう)の山頂は、戦国時代に平戸方の山城が築かれたところで、柱穴が残っていますが、今ではテレビの送信アンテナが建っています。
三尊岳の山頂には、平安時代中期、977年に三尊大明神を祭ったのが、現在の三柱神社の始まりだそうです。
金比羅岳は江戸時代は市ノ瀬村です、明治になってから合併して佐々になりました。これらの山の尾根筋に遊歩道が整備されています。アップダウンの厳しい所で、私もまだ元気なころ、4人組で、往復歩くぞと言って、行ったものの片道で降参しました。登山ブームのころ、30キロの砂袋を背負って、アルプス登山を目指す人たちの練習場に使われたこともありました。
昭和の初めごろ、テレビ塔のすぐ下の1番札所から、展望台の所の10番札所まで、石仏が置かれ赤い前掛けがつけられています。
ここからの佐々の町の眺めは非常に良かったのですが、最近は木立が大きくなり、佐々の中心部はあまり見えなくなりました。 1番札所のすぐ横に、「難儀坂」と題する漢詩が岩に刻まれています。
写真では分かりにくいので、書き写しますと
段石築来達頂上
一望千里古川峰
望眼下佐々町富
保永久継踵之民
昭和五四・一月
作詞 木場部落長
徳永椙衛(とくなが すぎえ)
と読めます。この漢詩を作詞したのも石工の徳永さんです。私は何度かここを歩いていましたが、これに気付いたのは三度目の時くらいでした。口石の隣部落ですから、調べたらすぐわかりました。早速訪ねて行ったら、詳しい話を伺うことができました。
徳永さんは農業をしながら、農閑期には石工をされていたのですが、息子さんは牛牧場を営んでおられました。六番札所の所にもう一つ漢詩があると教えてもらい、早速登って行きました。
こちらは、読み下し文ですから分かり易いです。
断崖絶壁乾坤を阻む
難路除かんと欲して巨岩を砕く
築石の危機を脱し今此処に達す
巡礼の客僧誰か斯の労苦を知らずや
一九八〇
石工 徳永椙衛
と刻まれています。どちらの漢詩も七言絶句です。徳永さんの話では、子供のころ、兵隊さんからの手紙が、漢文で来ていたので、自分も勉強して返事を出すようにしたことから学んでいったそうです。それで漢詩もできるようになったそうです。
徳永さんとはその後も訪ねていくようになり、「口石金比羅さん物語」のブログの際、木場の炭鉱の坑口を探し出してもらったときの写真です。
各札所には、写真のような石仏がおかれていますが、これは2番札所のものです。
この遊歩道の石段つくりは、徳永さんが54歳から始めて還暦の年に出来上がったのですから、足掛け7年かかったのです。その間はとてもつらく苦しいことだったと、奥さんも話しておられました。
遊歩道には、この山にある砂岩を利用して階段を造ったそうです。
最近は訪れる人も少なく、木々も繁って、薄暗い所が多いようです。階段の登り口に、ギンリョウソウも見つけました。
札所を順番にたどって行けば、10番札所に出ます。ここには展望台がかなり後にできました。江戸時代はここまでが、佐々村です。尾根筋を最後まで歩き下ったところは佐々皿山公園です。
次回は大悲観の大文字の謎、新説とします
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