薩摩塔は、昭和30年代に斎藤彦松氏によって、発見、命名されたものです。当初は鹿児島県でだけ見つかったので、「薩摩塔」と名付けられたのでしょう。
これは、最初に発見されたもので、南さつま市坊津町の一乗院跡にあったものと伝えられ、現在は、「坊津歴史資料センター輝津館」に保存されています。
その後、長崎県、佐賀県、福岡県でも発見され、現在では、40基余のものが確認されています。
長崎県、佐賀県のものは、大石一久氏が中心に発見されています。福岡県では、久山町の首羅山遺跡から発見され、井形進氏を中心に調査がされています。首羅山遺跡の薩摩塔の写真を示します。
これらは独特の風貌をしており、今までの日本には見慣れないもので、しかも、九州の西側、海岸というか港寄りの所ばかりです。
その後、鹿児島大学の3人の先生の共同研究で、これらの石は中国、浙江省産石材「梅園石」と現地での調査、偏光顕微鏡観察やX線顕微鏡による元素とその分布パターンが酷似していて、日本国内では産出していないものであることから、中国産の石材と結論付けています。
年代としては、12、13世紀(中国の宋の頃)を中心として製作されたもので、当時、日本に住んでいた中国人商人が交易の中で、もたらしたものではなかろうかと考えられるとのことです。
このように、場所と時代がごく限られた範囲にしかないものが、薩摩塔と言われるものではないでしょうか。
長崎県では、平戸市で13基、大村市で1基、確認されていますので、平戸市のものを紹介していきます。
(1)志々伎神社沖の宮
志々伎神社沖の宮は、平戸市野子町宮ノ浦の離れ小島でしたが、今では漁港の整備のため、コンクリートの防波堤で歩いて行けるようになっています。その神社境内に上の写真のような、崩れかけた大きな石があります。六角形の径は1m以上で、崩れる前には、高さは3m以上はあったろうと言われるものです。
ところが、文政5年(1822)「志自伎沖之宮石鉢図」(松浦史料博物館所蔵)に描かれたものが残っています。
これでも、500年ぐらいは経過しているので、草も生えているし、少し壊れているのかも知れません。
沖の宮の左側に、この薩摩塔はありますが、右側には「宋風獅子」と呼ばれる石像もあります。
これも、研究者から梅園石とされ、痛みもひどく、真ん中に大きな亀裂が入っています。これらのものは、他のどこのものより大きく、船で運んできて陸揚げしてすぐ近くに置いたという感じがします。
次回は志々伎神社中宮の薩摩塔です
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