2016年3月14日月曜日

20.謎のウハキュウ文字

謎のウハキュウ文字
 古い墓地を見て回っているとき、吉永等さんからこの文字を教えてもらいました。平戸の墓地ではかなりあります。ここでは、相浦の母ケ浦(ほうがうら)の墓地のものを紹介します。

 少しわかりにくいので、拓本をとってみました。一番上の文字のことです。墓石の左側には享和3年(1803)、江戸時代後半の年号があり、砂岩のため5番目の文字は欠落していますが、戒名は「徳岩禅(士)」でしょう。
 

 ウ(烏、鳥)ハ(八)キュウ(臼、旧)など、昔の文字は音が同じならいろんな文字が使われています。ここでは、烏とハと旧の文字が組み合わされています。一般的には「」の文字が使われているものが多いようです。この文字は辞書にもなくパソコンでも出てきません。文字を作り単語登録をしています。平戸の墓地では、あちこちで見かけます。そのほとんどが、禅宗は曹洞宗の寺院、関係者の墓地の墓石や供養塔の最上部に刻まれています。曹洞宗の寺の坊さんに聞いても分からないというし、横浜に行ったとき総本山の総持寺の坊さんにも聞いてみたけど知らないとしか言いませんでした。
 そこで、曹洞宗の公式サイトに問い合わせたら次のような回答が10日ばかり経ってから来ましたので、少し長いけど紹介します。

拝復 井上順一 様

この度は、曹洞禅ネットをご利用いただき、ありがとうございます。
また、ご質問も頂戴しておりましたが、当方は公式サイトという関係上、いただいたご質問に対し、会議を経た上でご返答しておりますので、若干の時間を要しますことをご理解いただけましたら幸いです。

頂戴したご質問ですが、「烏 八 臼」についてだと理解しましたので、以下にお答えいたします。

確かに、こちらが曹洞宗の墓石や供養塔に書かれる場合があったようですけれども、曹洞宗宗務庁でもこれ自体について調査研究を重ねてきたわけではなく、よって、あくまでもご紹介のみですが、宮崎県高千穂町コミュニティーセンターのサイトに、次のページがございます。

●(資料紹介)高千穂町の「烏八臼(うはっきゅう)」資料2例
http://www.komisen.net/Uhakkyuu.htm

そこで、こちらのサイト以上の見解を、我々は持っておりませんので、こちらに説明を譲ります。また、挙げられている参考資料を見てみたいとも思いましたが、容易に入手できる類の文献ではなく、もし長崎にお住まいとのことであれば、井上様御自身で高千穂町にお問い合わせいただく方が早いと思いますが、如何でしょうか。

なお、上記サイトに指摘がございます「鵮」字については、強い関心を抱いておりますが、これについても、現段階で申し上げられるほどの調査研究は進んでおりませんので、大変に恐縮ですが、お答えできるのは、以上の内容でございます。

今後とも、禅ネットをご利用くださいますようお願い申し上げ、失礼いたします。

    合掌

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
曹洞宗公式サイト「曹洞禅ネット」
                         曹洞宗宗務庁 広報係

紹介されたアドレスには

(資料紹介)高千穂町の「烏八臼(うはっきゅう)」資料2例



烏八臼(うはっきゅう)
烏八臼は、室町時代末から江戸時代後期の墓標等に見られ、曹洞宗や浄土宗関係の墓地に多く見られます。
字の意味からいろいろな解釈が考えられています。
(1)鳥の意味。
(2)鳥を追うサギに似た「■(=鳥へん+鯢のつくり)」の変化したもので、この鳥名を墓標に彫る事で供え物に近づく鳥を追払う。
(3)日月の意味。
(4)優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)。
(5)梵字合字の崩れ。
(6)吽(うん)の合字。
(7)大迦葉が成仏の印として弟子に授けた字形。
(8)烏八臼の臼のきゅうは「き」すなわち「帰」と八の「き八」に臼の「う」を加え「き九」すなわち帰空を表す。
(9)カンタンと読み「ついばむ」の意味。昔、屍(しかばね)を林の中に捨て、鳥についばませて空に帰るよう墓碑の頭に用いた。
有力な説は、
「(10)■(=ク+日へんに鳥)(かん、たん)の変形。この一字は「随求経」の「随求阿羅尼小呪」にも「俺佐羅野拏瑟■(=ク+日へんに鳥)布羅耶莎賀(オンサラヤドシツタンフラヤソワカ)」とあり、本来、瑟■(=ク+日へんに鳥)の2字をもって発音し、滅罪成就、成究の意味を表す。」と言われています。
天草や人吉などでは、キリシタン関係として考えてある論文も数多く見られます。
高千穂町の場合、2例とも曹洞宗龍泉寺の隣接地に分布しており、また1例は墓以外の庚申塔でもあることから、多少意味合いは異なるかもしれませんが、
何らかの願いを込めたお目出度い文字として曹洞宗関係の僧侶の知識が働いて作られたものと思われます。

§1.上野養老禅庵の烏八臼
上野の龍泉寺の裏山「玄武城跡」の山麓にあったとされる養老禅庵の敷地内にあります。砂防ダム建設工事に伴い移設することになり、宮崎県文化課が試掘を行いましたが、石碑に伴う墓壙などは見られませんでした。
「○八臼烏洞月妙桂禅定尼」「??三甲午天十一月日」「老子敬白」と彫られています。「??三甲午天」は、玄武城などの年代から考えて、「天文3年(1534)」と「文禄3年(1594)」が考えられます。高さ106cm、幅56cm、厚さ21cmの尖頭舟形の板碑です。八臼烏は縦に重なる形です。

§2.上野龍泉寺境内の烏八臼庚申塔
上野の龍泉寺の境内に建っています。奉待タイプの庚申塔に烏八臼が見られます。
「天明八戊申」「八臼烏奉松庚申所願成就」「十一月吉日」とあり、高さ93cm、幅43cm、厚さ16cmの板碑です。天明8年は1788年です。八臼烏は八+臼へんにつくりが烏の形です。

【参考文献】
磯貝長吉「墓標文字烏八臼に憑れて」『郷土よこはま56・57号』横浜市図書館、1970年。15~26頁。
山上茂樹「山上茂樹翁ききがきノート」『多摩のあゆみ7号』(財)たましん地域文化財団、1977年5月。76~77頁。
豊永鈴蘭「肥後相良今昔史誌」人吉新聞社、1979年。201~202頁。
坂口雅柳「唐梵字銘碑考」『肥後考古第2号』肥後考古学会、1982年。17~35頁。
北郷泰道「烏八臼~使用下限を示す新資料について~」『宮崎考古第8号』、1982年。21~23頁。
五木村総合学術調査団「五木村学術調査~人文編~」155頁。
「日向民俗第46・47号」烏八臼特集、日向民俗学会、1994年。
人吉カトリック教会「人吉にキリシタンがいた~新人吉キリシタン考~」1994年。115~119頁。
濱名志松「九州キリシタン新風土記」葦書房、1998年。451~455頁。
延岡郷土史料婦人学級OB会ひみこ「10周年記念誌~延岡の石塔を訪ねて~」(上巻)、1996年。89~90頁。
川島恂二「■(=八+臼へんに烏)(ハツ・キュウ・ウ)の意味」有明の歴史と風土第20号』有明の歴史を語る会、1998年。2~5頁。
緒方俊輔「烏八臼へのロマン」宮崎日日新聞地域発信2000年1月21日。
緒方俊輔「また発見『烏八臼』」宮崎日日新聞地域発信2000年3月12日。
            
上野養老禅庵の烏八臼の板碑             上野龍泉寺境内の烏八臼の庚申塔
※ネットに書いていますが、個人の持ち物ですので、見に来られたい場合は、事前に御来町の日時などをご連絡いただくと幸いです。勝手に来られても、観光地でありませんので、地元の方から「どこから来た人ですか?」など言われる可能性があります。

とあり、結局何もわかりませんでした。曹洞宗と言えば総本山が永平寺(福井県永平寺町)と総持寺(横浜市鶴見区)の二つありややこしそうです。

次回からは珍しい、亀扶を紹介します。







2016年3月7日月曜日

19.佐々町の棚田

地元、佐々町の棚田(棚田百選ではないけど)
 佐々町には有史以前から人類が住んでいた痕跡があります。それは、狸山にある支石墓群(ドルメン)です。朝鮮半島で見られるもので、発掘調査も行われ、内から勾玉も出てきています。その頃から稲作が行われていたのでしょう。
 山に取り囲まれた地形のところで、歴史的には、かろうじて977年(平安時代)に山頂にあった神社の記録が残っているのがありますが、実質的には戦国時代からとなります。
 佐々町を縦断している佐々川は長崎県では最大最長の川です。この川の水利を利用して、田んぼが広げられてきました。戦国時代の領主は農地を拡大するために苦心したようです。江戸時代になると浅瀬の海岸を干拓してほぼ現在の土地が出来上がり、川の水面より低い田んぼもあるようです。大雨の時、大型のポンプでくみ出す施設は拡大されてきています。干拓以外の農地は、いわゆる中山間地で、ほとんどが棚田で占められています。都市化の波で宅地となった棚田もかなりありますが、無数の棚田が町内には残っていますので紹介します。

1.木場の棚田
 佐々川の支流、木場川に沿って多くの棚田があります。佐世保市に近いこともあって、新興住宅地もいくらかできましたが、多数の棚田があちこちと点在しています。木場川上流付近です。


 高台にも石積の棚田が造られ、きちんと整備されたところが多く見られます。溜池も多く、渇水になれば佐々川の水を溜池に組み上げる設備ができています。150mもポンプアップしているため大変な工事だったと関係者の話も聞きました。


 高台の見晴らしの良い所には、「農栄碑」と書かれた大きな石の記念碑が目立ちます。最近は稲作以外には和牛生産農家も増えてきています。 

2.江里の棚田
 この棚田には溜池がほとんどありません。山肌から湧水が出ていて、年中枯れることがありません。

 写真を撮っていたら、横や後ろにも狭いけど棚田があります。



3.志方の棚田
 志方という地名は、戦国時代の領主名によるものです。中段には居城跡というか屋敷跡なども残っていて、近くには千人堂とか千人塚という地名も残り、戦国時代の名残をとどめています。このあたりに狭いながらも棚田が見られます。

 志方の下方は農地の整備が進み、石垣による棚田は姿を消しています。

4.大茂の棚田
 佐々町の地域は丸い形をしていて、佐々町に降った雨は佐々川に流れ込むのが大部分ですが、大茂の水は、江迎に流れるといわれ山も深いものがあります。小さい棚田が点在しています。この棚田の付近には、以前エビネランの自生したものがあり、ブームになった頃はこの付近を探して回りました。

 狭くても構造改善事業が行われたところもあり、りっぱな田んぼになったところもあり、道路の整備も進み昔ほど山奥という感じがしなくなりました。

5.栗林の棚田
 この付近の農地は日当たりもよく、宅地化も進んでいます。写真のところは、改善事業で広い田んぼになっていますが、石垣部分もいくらか残されています。

6.神田(こうだ)の棚田
 この地区には、大手の炭鉱が進出してきてずいぶん賑わったのですが、今では農業主体のところです。広い農地はほとんど改善されていますが、昔ながらの石垣の棚田やその荒れた部分なども見えます。
 
 棚田は佐々に限らず、長崎県内どこにでもあります。とても紹介しきれません。広い所を写真に収めるには無理があり、ドローンでも使えば良さそうです。
 今回の写真は、冬枯れのさびしいものでしたので、田植え後や夏の緑濃いものや、秋の収穫時のものも追加してみたいと思っています。忘れなかったら良いのですが。


次回は「謎のウハキュウ文字」です

2016年2月29日月曜日

18.飛び石(2/2)鹿町川

鹿町川の飛び石
 ここの飛び石は、自然石をそのまま並べていて、何も加工が加えられていないものです。
 鹿町小学校の登り口に近い所で植松バス停もあります。昔は小学生が川遊びをしながら登下校していた所でしょう。小学生もめっきり数が減っています。対岸には民家がありますが、今では、この飛び石を使う人はいないのではないでしょうか。私が近くに勤務していた時には、散歩やジョギングで時々渡ったこともありました。今回写真を撮りに行った時も、以前と変わらずに使えそうでしたが。
 鹿町川にはこの下流にも飛び石があった所が、2か所確認できました。ひとつは

 両岸には川へ下って行く道が、土手の工事をした後に取り付けられています。その両側には細いけども、道路が伸びています。すぐ近くに土井の浦橋ができたので不要になったようです。

 ここは鹿町川でも下流ですから、潮の満ち引きが大きい所です。ここの飛び石は見たことがありましたが、今では全く石は何もありませんが、両岸から川へ降りる階段が残っています。この飛び石は、川向うの田んぼへ農家の人が農作業に行くのに使っていたと聞きましたが、大潮の満潮時には使えなかったでしょう。

江迎町三浦の飛び石跡(江迎川)
 今はしゃれた歩道橋が架かっています。
 この橋の下辺りに、以前、飛び石がありました。私は川向こうに見える三浦住宅に住んでいて、中学校の3年間、毎日ここの飛び石を渡って通学していました。
 江戸時代の平戸街道はここを飛び石で渡っていたと記録にもあり、伊能忠敬も測量で渡っています。平戸街道ネットワークの会で街道ウォークをするときには私がガイドをして橋の上で説明をしています。
 私が渡った石はもしかしたら、全部ではなくても少しぐらいは、江戸時代のものもあったかもしれませんね。


次回は佐々町の棚田です




2016年2月22日月曜日

17.飛び石(1/2)相浦川

相浦川の飛び石
 江戸時代には川に橋が架かるのは珍しく、飛び石を置いて、そこを人々は渡ってのです。それが、現在に続いているところがわずかに残っているので紹介します。



説明文が分かりやすいので、そのまま写して書きます。
         相浦川の飛び石 
 旧松浦藩の領内の川に江戸時代の橋があった記録はほとんどない。これは一説には戦略上の目的といわれるが、本当は技術的に橋が架けられためであろう。金もなかったでしょう)
 そのため、橋の代わりの飛び石が各所にあったが、現在残っているのは相浦川の飛び石だけである。幾度かの改修を経ながら、江戸時代の始のころからあったことは確実である。
 飛び石は砂岩を用い、水切りを良くするために縦に長く加工し、
しかも安定のために孔を設けて木材を通した後、歩幅の間隔で並べ、砂利で固定されていた。これは長年の経験から考えられた昔の人の知恵と思われる。この飛び石は江戸時代から港として栄えた相浦へ通じる唯一の商業や行政の交通路であるが、明治11年に今の木の宮橋の所に木橋が初めて架けられて主役の座をゆずっている。今は途絶えたが、以前は地元川迎の寄合いで数年に一度はその補修を行っていた。これは生活のための大切な飛び石をまもる習慣であった。
 飛び石は歴史のなかで人と文化を渡してきた証人であり、今後も大切に保存して後世に残すのが私たちの務めです。
      平成5年10月  佐世保市教育委員会       

 この飛び石は現在も時々利用している人を見かけます。江戸時代からの石では中央部がすり減っています。人がよく歩いた証でしょう。天気が良い日にこの飛び石を歩きましたが、しっかりしているので安心して歩けましたす。
 相浦の「愛宕祭」(毎年2月25日頃の金~日)には、東漸寺の住職が「勝軍地蔵」を背中に背負って、この飛び石を渡り、愛宕山の山頂まで運び、2月25日に御開帳されています。今年の愛宕祭は2月26日(金)~28日(日)に行われます。
 この飛び石は佐世保市が文化財として指定していますので今後も残っていきそうです。新しい石で補修された部分もあります。

次回は鹿町川の飛び石です






2016年2月15日月曜日

16.相浦川沿いの棚田(4/4)皆瀬・中里

1.皆瀬(かいぜ)地区の棚田
 皆瀬にも以前は棚田が広がっていたと思われますが、かなりの部分が住宅地に変貌しています。皆瀬地区の高台の十文野(ともんの)付近の棚田を紹介します。
 現在の皆瀬は、相浦川沿いの低地に集落はまとまってありますが、明治の初め最初の小学校が庄屋屋敷に始まったのが、この十文野だそうです。今では農地と閑散とした集落です。小学校も下の集落地に移ってきています。
 古い神社の鳥居はずいぶん上ってきたところにあり、しっかりお祭りも行われています。


2.中里の棚田
 江戸時代、中里は平戸藩の郡代役所が置かれていて、現在の佐世保市の行政の中心地でした。相浦川の河口に近くなるので、平地の田んぼもありますが、すぐに山が迫り、棚田もかなりあります。

八の久保地区は山崩れで、八の字形に斜面が削られてそこに棚田が造られたといわれています。


 上の写真では八の字に削られた様子は分かりにくいうえに、棚田の擁壁は石垣でなく土で固められています。しかし、元は石垣で農地の改善事業で広い田んぼになり石垣は姿を消してしまいました。

3.実盛谷(さねもりだに)
 ここには棚田はありませんが、江戸時代農薬がない農民は相浦川上流の里美村→柚木村→大野→皆瀬→中里と鉦や太鼓を打ち鳴らし、害虫を追い出し最終地のここ実盛谷で実盛の恰好をした実盛人形を焼き捨て打ち上げたといわれています。実盛とは平安時代末期の武将、斎藤実盛のことで平家物語によると、実盛の最後は乗っていた馬が稲の切り株につまずいたためで、実盛が稲を食い荒らす害虫(ウンカ)になったとの言い伝えがあります。現在この谷は高速道路佐々・佐世保線になっています。

 この谷の下には、佐世保軽便鉄道時代のトンネルが埋まっています。高速道路工事でトンネルが埋まる3日前に通った時の写真を付けます。

 馬力が小さかった軽便鉄道はこの坂を越えることができず、トンネルだったのですが、現在の車は楽々と超えています。


次回は佐々町の棚田を予定していましたが、相浦川の飛び石とします。


2016年2月8日月曜日

15.相浦川沿いの棚田(3/4)大野

大野地区の棚田
 大野地区は佐世保市街とは言えないものの、かなり近く、海軍鎮守府ができたころから開発が進んできたようです。したがって、かなり高段まで住宅地が建てられていて、昔の棚田が住宅地になっています。それでもいくらかは棚田が残っていて、耕作されています。

 山から見たら、相浦川沿いの低地にはびっしりと家並みが建ち高層のマンションも近頃は増えています。

 棚田の上にも、住宅地が造られ、町内会の名前に「坂の上」とか「坂の下」という呼び名のところもあります。

 相浦川沿いの開拓は川下から、上流へ進んだいますが、その中心地は大野地区です。ここにある祝詞(のりと)神社には「開拓1000年」の記念碑が昭和53年(1978)に建てられています。

 その他にも、「矢保佐(やぼさ)神社」が2キロ毎に、現在も5か所ほどあり、まとまった開拓開墾が終わったところに建てたといわれています。その中心が祝詞神社ということだそうです。

次回は皆瀬、中里の棚田です。







2016年2月1日月曜日

14.相浦川沿いの棚田(2/4)柚木

柚木(ゆのき)の棚田
 現在の柚木地区は農村と言えますが、昭和40年代までは、炭鉱町として栄えていました。山際には棚田が残っています。


 しかし、ここの中心地は、耕地の改善事業が行われ、昔棚田だったところが、広い田畑になっています。そこには、大きな記念碑が建てられ、詳しい説明文が書かれています。

 碑文によると、106ヘクタールの広さの田畑が、小さな棚田だったものが区画整理されたとのことです。大型機械で整地されたのですから、石垣はほとんどなく、段差は土で固められていて、棚田ではないように見えます。山ばかりの長崎県内では、100ヘクタールを超えるような農地は数少ないものです。


 この整地された付近は「相当原(そうとうばる)」と呼ばれていて、戦国時代には合戦があり、今も語り継がれています。ここから下ったところに、柚木の町があり、鉄道も来ていましたが、今はなくなっています。
 山からなだらかに下ってくるところに、炭住街の跡が見られます。

 今は普通の住宅ですが、道に沿って段差がついています。住民に聞いたら、昔は炭住で、その前は棚田であったとのことでした。この道の左側には、炭鉱の坑口をふさいだところもあります。右側の川向うには、炭鉱住宅をそのまま利用しているところもあります。


次回は大野地区の棚田です