鳥居としては特に珍しいものではありません。肥前型でもなく比較的新しく、昭和11年3月に建てられた明神型のものです。
しかし、ここに取り上げたのは、佐世保鉄道(株)が左石駅構内に交通安全の神様として祀られたものです。神社名は「宗像神社」といいます、最近福岡県の宗像大社・沖ノ島などが世界遺産に登録されて脚光を浴びている神社の末社ということになります。この鳥居の足には奉納者10人の名前が記されてその人たちのことは調べればわかるだろう思い立ち写真を撮りに行きました。
昭和11年3月には、左石駅構内に建てられた神社の鳥居でした。軽便鉄道の釜焚き、その後、国鉄の機関手だった故山田博儀さんの証言です。左石駅の駐車場になっているところにあったそうです。その後、構内は手狭になって昭和20年代に移転されました。
現在は、石盛山頂上付近にある石の祠の所に玉垣も少し移転されたようですが、最近もお祭りがされたようで鳥居の注連縄も掛けられています。しかし、この昔からあった石の祠、2か所の神社名は分かりません。
鳥居の足の奉納者名は全員で10人です。
中倉万次郎
筬島桂太郎
浜野 治八
草刈源四郎
武 文彦
七種純一郎
篠崎 緑吉
郡 禎三郎
崎田 信雄
草刈 克己
当時佐世保の周辺では、政財界の大物ばかりです。佐世保市図書館で見せてもらった「佐世保名鑑」によると、昭和9年7月1日の佐世保鉄道(株)の説明では、「鉄道総延長35.5km、同年度上期における石炭総輸送量17万トン、旅客人員573、536人に達す」とあり、重役は次のごとしとあります。
社長 中倉万次郎
取締役 筬島桂太郎
同 浜野治八
同 森 肇
同 草刈源四郎
監査役 七種純一郎
同 篠崎緑吉
同 郡禎三郎
同 崎田信雄
支配人 武 文彦
2年の違いはありますが、どちらも10人で、1人だけ入れ替えられています。昭和11年9月30日発行の「佐世保鉄道国鉄買収記念アルバム」(故井出一郎氏所蔵)に鳥居の足にある人名のうち3人がありますので、紹介します。
社長 中倉万次郎
嘉永2年(1850)年、吉井村の川崎家に生まれ、平戸の藩塾などで学び、秀才の誉れ高く、世知原村の中倉家の養子となる。若いころは平戸藩に仕え、藩主の若君の教育係を務めています。20代で北松浦郡内の村長となり、次に長崎県会議員となり、その後、衆議院議員となり、副議長までなっています。経済界でも、佐世保に銀行を作ったり、世知原のお茶の製造にも最初に取り組んでいます。長崎県北部では政財界の超大物と言えるでしょう。(世知原郷土誌から)
昭和11年1月には、88才(数え歳)の高齢にもかかわらず、東京まで出かけ、佐世保鉄道を国鉄に買収してもらうことを決めてきています。それで安心したのか、病気になり2月になって亡くなっています。北松浦郡内には顕彰碑などありますが、それには「中倉万次郎翁」と記され、老人になってからの活躍が目についたようです。世知原の自宅の上の方にある墓地には息子さんの名前ではなく孫の名前で建立されています。息子よりも長生きしたのではないでしょうか。それによると「仁量院殿万照浄境大居士」と院殿大居士の戒名が記されているので、昔の殿様並みです。
専務取締役 武 文彦
昭和9年の会社案内では「支配人」となっていますが、国鉄買収記念アルバムでは「専務取締役」となっています。買収が決まり、佐世保鉄道が国鉄になるのですから、役員はそんなに大勢はいりません。以前からの取締役ははずして、佐世保軽便鉄道の初期からいた、神戸の人で鉄道に関しての専門家はただ一人と思われますので、専務にしたのでしょう。中倉万次郎存命中の人事でしょうから他の人に意義があるはずはありません。鼻髭は分かりますが、胸の勲章はどういったものでしょうか。
支配人 草刈 克己
他の人に比べて格段に若い人ですね。草刈家はこの辺りでは特別格の家です。先祖の草刈太一左衛門は江戸時代の末期に魚の行商から身を立て、炭鉱主となり石炭の輸送にも手を広げ、平戸藩に1000両の大金を上納して、名字帯刀を許された人です。その後、水田の干拓も手広く行ったことでも有名です。
その直系の子孫が草刈克己さんです。(前出の山田さんの話)山田さんは若いころ、家も近かったので盛んに草刈家に出入りしずいぶんタカッタものだそうです。現在では草刈家の資産はあまりないとのことです。草刈家の墓地は佐世保市真申の山の中腹にあります。
親族の大きな墓がずらっと並んでいます。それによると、「草刈太一左衛門重光」と長い名前が書かれています。この人の話はずいぶん残っており、家宝は魚屋の頃の「てんびん棒」だそうです。相浦川筋、大潟新田100町歩の竣工式では、臨席した平戸藩最後の殿様、詮(心月)公は着用していた陣羽織を脱いで与えた(「史都平戸」松浦史料博物館発行)との記録もあります。
0 件のコメント:
コメントを投稿