佐世保(軽便)鉄道の神社の鳥居に残る人たち(下)
佐世保鉄道の本社と上佐世保停車場は同じところにありました。現在の俵町教会の所です。
佐世保市立図書館の郷土資料関連の部屋の鍵がかかった棚から写真付きの人名録を出してもらい、見せてもらいコピーを取ることができましたので紹介します。4人の人です。
筬島桂太郎
『福岡県柳川出身、明治法律学校卒業後、福岡県属任じ、明治35年佐世保市制実施さるるや愛媛県属より転じて佐世保市助役となる。39年3月愛媛県上浮穴郡長に任ぜられ、40年4月辞任後、大阪電灯会社庶務課長となり佐世保支店長兼ぬ、後、東洋精糖会社主事並びに新高製糖会社主事に就職す。大正7年8月佐世保軽便鉄道株式会社の創立せらるるや専務取締役に就任し、大正10年8月佐世保市長に挙げらる』
草刈源四郎
『 19年4か月間、山口村長(現在は佐世保市相浦)を務めた。よほど行政手腕に長けていたのだろう。氏の祖は草刈太一左衛門と同族の、29世松浦鎮信(天祥公)に仕えた草刈十郎左衛門だといわれる。太一左衛門が大野に住したのと異なり、源四郎氏は平戸に土着した。
氏は慶応元年(1865)出生、平戸、武生水、厳原の三署を経て明治21年警部。神代分署長、(中略)愛媛県西条警察署長などを勤めた。
明治42年退職し帰郷、同43年4月北松浦郡山口村長に就任する。前村長松崎安之助氏は土地の人だったが、草刈氏は平戸の人。おそらく当時代議士だった中倉万次郎、前代議士草刈武八郎両氏あたりが推したのではあるまいか。(後略) 』
七種純一郎
『(市会議員)京都医専出身、先代故周哲翁の刀圭家を継ぎ小児科専門たり。大正11年6月市会議員に当選し、佐世保新聞社相談役その他諸会社の重役に挙げられる。 』
篠崎緑吉
『 明治16年8月市外中里村の旧家に生る。平戸中学校を出で東京に於て法律経済の学を修め帰郷して鉱業に従事し主として北松炭田不振を慨して其発展に努力すること十余年、(中略)大炭脈を発見し、炭鉱界の開拓者として其偉大なるを称せられ更に叶小佐々中通の各炭鉱を経営し、又は経営しつつありて益々炭鉱業の開発に努力す。大正11年6月市会議員に挙げられ昨年9月佐世保新聞相談役に推され其他公共事業及び郷覚の為に力を盡しつつあり。 』
浜野治八
この人は佐々町の人ですから、「佐々町郷土誌」に詳しく出ています。そこから佐世保軽便鉄道に関することを主に書きたいと思います。
元治元年(1864)生まれ、昭和22年死去、83才。炭鉱経営を志し、苦労の末に強粘結炭を産出する鹿町炭鉱を開発した。この炭鉱の開発での浜野の苦労を知っていた中倉万次郎は政府に働きかけて、八幡製鉄所に買収されるようにした。当時、憲政会所属の中倉は、国会では反対勢力の政友会からの反対もあったが、当時の金額では300万円、現在の金額では数百億円の金額であった。その金で、浜野は自宅を新築して現在も残っているけど、その石垣の見事さはあまり他に例を見ない、丸い石(黒島の隣の伊島の石)を割って、その面を見せている。
その後、神社やお寺にも多額の寄付を行っています。自宅のすぐそばの東光寺にはお寺の本堂を1人だけで寄進しています。東光寺の位牌堂には、本尊の右側には歴代の住職の位牌が置かれていますが、左側には浜野家、特に浜野治八の戒名は中央に大きなものが置かれて他の檀徒とは全く違った扱いになっています。浜野治八さんの戒名は「北斗院殿東光如雷大居士」となっています。院殿、大居士の戒名は昔の殿様だけしか見たことがなかったのに驚きました。昭和22年の戦後ですからこの戒名もお寺は付けやすかったでしょう。
以上で鉄道会社が建てた鳥居の足の残っている10人のうち、8人の人のことが分かりました。しかし、調べた中で「郡禎三郎」「崎田信雄」の両氏のことや写真がありません。どなたか知らせてもらえればありがたいと思っています。
次回から肥前狛犬になります
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