戦国時代、ここに白狐山城があり、平戸松浦家の基礎を築いた所と言えるでしょう。小高い山ですから、簡単に登れたのに、最近はイノシシ対策のフェンスが張り廻られていて簡単には行けなくなりました。
頂上に記念碑や祠などがあり、平戸藩第10代藩主熈(ひろむ)公が建てた記念碑に亀扶があります。
何らかの記念碑であることは分かりますが、文字が読めずにはっきりしません。山頂に上ってくる途中には、戦国時代の平戸の領主たちの墓が2基ありましたが、あとから建てたものです。第9代清公と10代熈公の2代に渡って、平戸松浦家の「家正伝」を編纂しています。それが出来上がったことを記念して、苦労した先祖の墓も遅ればせながら、造られたようです。そのひとつ
平戸藩初代藩主、鎮信(法印)公の2代前の領主、興信(おきのぶ)高齢公の墓です。藩史でもこの人の生没年は不詳となっていて、戦国領主はいつ生まれたのか、いつ死んだのかもはっきりしていないのですから、まさに歴史は勝者の記録といったものです。
頂上にある祠は、木の扉で鍵も掛かっていないので開いてみたら、白馬にまたがった、勝軍地蔵がありました。相浦の愛宕祭の時には、東漸寺の住職が背中に背負って飛び石を渡って愛宕山の頂上まで運び、2月24日~25日だけ1年に一度の御開帳となる代物です。ここでは無造作に置かれいます。ほとんどここまで登ってくる人がいないのではないでしょうか。雑木が茂って人を寄せ付けないような雰囲気のところです。
登ってくる途中には高校時代、体育の教師をしておられた先生の墓もありました。平戸藩の家老の家柄の人です。
次回は田の平神社の亀扶について書いてみます
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