2017年10月16日月曜日

103.佐賀県砥川の肥前狛犬8

砥川8
 神社名は伏せます





 無人の神社ですから、小型の肥前狛犬はひょいと持っていかれそうですから用心に越したことはありません。

次回も砥川の肥前狛犬です

2017年10月9日月曜日

102.多久資料館に寄贈された肥前狛犬

多久資料館 
 ここには「肥前狛犬を学ぶ会」の本部があります。以前、「ニューヨークから帰ってきた肥前狛犬」というのも書きましたが、これもこの資料館に展示されています。最近になって、個人の方から肥前狛犬が寄贈されました。
 


 寄贈された方は、以前、古物商から購入されていたそうですが、資料館に持ってこられたとのことです。ニューヨークから帰ってきた肥前狛犬が新聞やテレビで佐賀県内では報道されたので、個人で所有するよりは、資料館で皆さんに見てもらいたいとの理由ではないでしょうか。

次回は佐賀県砥川の肥前狛犬8です






2017年10月2日月曜日

101.自作の狛犬

石に狛犬を彫ってみました 
 肥前狛犬を見て回りはじめてそれほど経過してはいないけど、200体以上は写真に撮っています。小さいけど、実に印象深いものです。これなら自分でも彫れるのではないかと思い始めて、硬い石はやれないけど、砂岩なら手持ちの道具で出来そうに思いました。
 山道を通りかかったとき、手ごろな砂岩を見つけて拾ってきました。サンダーにダイヤモンドカッターの刃を付けて切り出したらきれいな面が出てきたので、これで外形を削り出し、細かい所は昔、篆刻をやっていたときの、刀(とう)を使ったら割と簡単でした。出来栄えは満足いくものではありませんが、素人の作として遊び心を楽しみました。前からの写真
 

 後ろからでは

 製作年月と製作者名はちゃんと入れました。肥前狛犬は現在残っているものは700体以上ではないでしょうか。今まで見たもののうちで、彫り易そうで、拾ってきた石の形にあうものにしたらこのようになりました。
 肥前狛犬の定義は製作年では、300~200年前に作られたものとなりますので、これは肥前狛犬ではありません。「肥前狛犬を模した現代の狛犬」というところでしょう。
 神社に奉納されているのは、ア・ウン一対が一般的ですから、また適当な石を見つけたら、似たようなものをもう一つ彫りたいと思っています。

 今年の4月口石金比羅さんの春祭りの折、この神社に奉納しました。

この中です。

 ここには、中央に金比羅神社、左に黒髪神社、右に宮地嶽神社と3つの石の祠があります。その間に置かれました。


 1体だけですから、何とも落ち着きが悪く感じられます。適当な砂岩を見つけたら、もう1体彫って、1対になるようにしたいものです。


次回からはまた肥前狛犬のシリーズです







2017年9月25日月曜日

100.大村市東光寺跡の石塔

東光寺跡の石造仏群(大村市一ノ郷東光寺)
 前回に引き続き、大村市の福重地区です。ここの調査には熊本県の文化財審議委員の前川清一氏が当たられ、それを多久市の永渕さん、地元郷土史家の上野さんと一緒に見守りました。その後、前川さんから詳しい調査報告書が文書でいただきましたので、それを基に書き進めます。

1.正和三年(1314)銘宝塔


 この石碑に関しては、大村市史や説明板では正和5年(1316)と書かれていますが、拓本を採ってもはっきりせず、LEDライトで照らして詳しく調べても、縦線が見られないので、五ではなく、三であると前川さんは結論づけられました。

2.応永27年(1420)銘宝篋印塔
3.宝徳4年(1452)銘石塔
4.文明10年(1478)銘宝篋印塔
5.天文10年(1541)銘石塔 
 この狭い敷地内には以上5基の石塔が年号が記されていて、いずれも中世のものがあるというのは、珍しいものです。

 ここには、江戸時代のものがありません。大村は戦国時代末期に大村純忠がキリシタン大名となり、寺院や神社は破壊され尽くされたといわれます。この福重地区には中世には七坊十山の寺院があったとされますが、どれ一つ現在残っているものはありません。記銘年が分からない線刻の板碑は平安時代のものだろういわれる古いものもこの地区には残っています。

 この敷地の横に大きなこの「三伯」と書かれた石碑がありますが、これが何を意味するのかは皆目わからないそうです。

次回は自作の狛犬です








2017年9月18日月曜日

99.大村市龍福寺跡の薩摩塔

大村の薩摩塔
 大村市は不思議なところで、戦国時代から以前の遺跡と思われるものは、かなりあるのですが、江戸時代のものはさっぱり見当たりません。
 日本最初のキリシタン大名といわれる、大村純忠の時代に寺院や神社それにかかわるものも、ひどくぶち壊したらしく、あってもみすぼらしいものです。この薩摩塔が残っている「福重地区」には七山十坊と呼ばれる17もの寺院があったそうですが、江戸時代には全くなくなり、明治以降に建てられたお寺がいくらか現在は見られます。中世以前の龍福寺跡に薩摩塔の残欠が残っていました。

 薩摩塔の後ろの石塔には「當寺中興」の文字が残っており、当時の名残が偲べます。写真を拡大すると

 中国風の武者の陽刻は分かります。硬い石の特徴で、ひび割れが入っています。鹿児島大学の先生が石のサンプルを持ち帰り、詳しく調べられたら、中国の梅園石と一致したとこの家のご主人から伺いました。
 大村市のこの辺りは大村湾に面しており、13世紀のころには、交易港もあり中国人の商人もいて、この中国人が本国からこの塔を取り寄せて、先祖の供養をしていたのではなかろうかと思われます。

  この辺りは、ビニールハウスの農地が多く、果樹や花の栽培が盛んで豊かな農地を感じました。

次回は大村の東光寺跡の石塔です  







2017年9月11日月曜日

98.海のふるさと館のライオン像

海のふるさと館のライオン像
 松浦市の道の駅「海のふるさと館」には立派なライオンの石像ががあります。新しいので注目されることはありませんが、年数が経てば風格も出てくるでしょう。向かって左側がア像、右がウン像と狛犬の様式を踏襲しています。

 この、道の駅は農産物もありますが、何といっても海産物、特に近海物の新鮮な魚が豊富です。夏場にはシャッパ(全国的にはシャコと呼ぶ)が水揚げされているので、多量に買ってきて湯がいて食べると旨いものです。

 この石像は、真っ白い花崗岩製で、2007年4月1日、東洋水産株式会社 贈 と刻まれています。

 辺りは広い駐車場のそばの芝生公園になっています。海岸もすぐ近くですから、気候が良いときは家族連れで遊んでいる人たちを見ます。

次回は大村市龍福寺跡の薩摩塔です







2017年9月4日月曜日

97.今福・太田堤の記念碑

太田堤の記念碑(松浦市今福町)
 佐世保史談会発行の郷土誌「談林」に平戸街道ネットワークの会の山口敏幸氏の寄稿文にあった記念碑を見に行ったら、江戸時代末期のものですが、碑文の文字が実に立派なので、取り上げました。

 石碑の文面は、表題はありませんが、4面全部に書かれています。正面の写真を示します。この文字を書いた人の名前も分かっています。樋口周助兼亮とあります。

 拡大するとぼけた映像になりますが

 若いころ書道を少し習っていた時、楷書体の手本として、5世紀にできた中国の石碑「九成宮醴泉銘」の欧陽詢の書を思い出しました。

 この写真は拓本に採ったものをネットから拝借しました。中国では5世紀にはすでに現在の文字が確立していたのですね。

 松浦市今福と言えば、平戸松浦氏の始祖久が「ぎぎが浜」に上陸した地と言われています。今では海水浴場となっていて記念碑も建っています。

 この海岸の上に当たるところに太田堤はあり、現在、浜の脇町内となっています。

 浜の脇公民館に正月明けに行ったら、門松飾りがありました。ここには、松浦市のコミュニティーバスも来ています。
 
  また今福の地には、農地を作るための干拓では、人柱を建てた話や「史都平戸」には今福では農民の逃散が度々記録されています。江戸時代には宗家松浦氏の知行になっていたためか殿様は江戸にいて、悪代官が農民をいじめていたのだろうと考えたりします。

 この碑文は天保6年(1835)、漢文で書かれ、関係者の名前も詳しく書かれており、また松浦家文書でも確認されています。碑文の内容としては、当時庄屋の金子利助という人の功績が述べられています。山口氏の文章を引用しますと
 『碑文は金子利助の農業土木工事に対する才覚と勤勉さ熱意を誉め、太田堤築造工事の功労者であることを最大級の賛辞で誉めている。彼は文政四年(1821)五月今福に着任。翌文政五年より天保元年(1830)」までおよそ9年間太田堤の築造に関わり、調川村へ転勤していく・・・』
 また、文書では金子利助の年俸は8俵というのですから、ごく軽率です。山口氏の文面では『彼の今福に対する功績に報いるため、今福役所から平戸藩に対して徒士組に任じたい旨願いが出されたが、返事はなかった。彼に対する感謝の気持ちが石碑建立に至ったのではないかと思われる』と記されています。

次回は海のふるさと館のライオン像です