武雄市4
ここの1対2体は小さくて、ひょいと持っていかれそうなので、場所が特定するようなことは書くことができません。
写真を撮ったとき、日差しが強くて、あまり良くなかったのですが、屋外に置かれているためでしょう、顔の表情は良く分かりません。300年以上は経っているようです。
次回は武雄市5です
2018年1月29日月曜日
2018年1月22日月曜日
117.佐賀県武雄市の肥前狛犬3
武雄市3
ここには1対2体と1体、合わせて3体の肥前狛犬がいますが、神社名は明らかにはしないことにします。
この1対は風化が進み、傷みがひどいものです。ウンの方は何とかまともに見れますが、アと思われるのは、口のあたりの石ははぎ取れてなくなっています。横から見ればこの石は頁岩らしく大昔の堆積層に沿ってひびが入っています。上中下3か所もロープで縛られて痛々しさがひどいものです。
1体だけのものは
神殿前の片隅に、ガラクタ石を寄せ集めたように雑然と置かれた中にあります。
こちらもずいぶん傷みがひどく、顔の表情は良く分かりません。別の所にあったものをここで余生を送っていますが、待遇は良くありません。
次回は武雄市4です
ここには1対2体と1体、合わせて3体の肥前狛犬がいますが、神社名は明らかにはしないことにします。
この1対は風化が進み、傷みがひどいものです。ウンの方は何とかまともに見れますが、アと思われるのは、口のあたりの石ははぎ取れてなくなっています。横から見ればこの石は頁岩らしく大昔の堆積層に沿ってひびが入っています。上中下3か所もロープで縛られて痛々しさがひどいものです。
1体だけのものは
神殿前の片隅に、ガラクタ石を寄せ集めたように雑然と置かれた中にあります。
こちらもずいぶん傷みがひどく、顔の表情は良く分かりません。別の所にあったものをここで余生を送っていますが、待遇は良くありません。
次回は武雄市4です
2018年1月15日月曜日
116.佐賀県武雄市の肥前狛犬2
武雄市の肥前狛犬2
この神社名は出さないことにします。
神殿内に1対2体鎮座しています。ここの場合ずっと神殿内にいて、雨風に当たることもなかったのでしょう、300年以上は経っているのに、風化はほとんど見られません。顔をアップしてみると出来上がったときのものと同じではないでしょうか。
次回は武雄市3です
この神社名は出さないことにします。
神殿内に1対2体鎮座しています。ここの場合ずっと神殿内にいて、雨風に当たることもなかったのでしょう、300年以上は経っているのに、風化はほとんど見られません。顔をアップしてみると出来上がったときのものと同じではないでしょうか。
次回は武雄市3です
2018年1月8日月曜日
115.佐賀県武雄市の肥前狛犬1
武雄市郵便局横の祠
永渕さんに案内してもらい出かけました。写真を撮ろうとしたら肥前狛犬が見当たりません。
お地蔵さんや恵比寿さんなどの他の石仏はありましたが、肝心の肥前狛犬がいません。すぐ横の家の人に聞いたら、最近になって、古物商がやって来て、これを譲ってくれと言われ、5000円を置いて行かれたそうです。家人が肥前狛犬のことを知らなかったので、だまして持って行ったみたいです。
ここの肥前狛犬は、以前、永渕さんが写真に撮っておられたのでそれを拝借します。
素朴な肥前狛犬が、1体だけあったのが、現在はありません。持って行った古物商の名前も分かりませんでした。民家の人も自分のものでもないのに、売り払うというのはおかしなものです。どこかで見つかって早く帰ってきてほしいものです。
次回は武雄市2です
永渕さんに案内してもらい出かけました。写真を撮ろうとしたら肥前狛犬が見当たりません。
お地蔵さんや恵比寿さんなどの他の石仏はありましたが、肝心の肥前狛犬がいません。すぐ横の家の人に聞いたら、最近になって、古物商がやって来て、これを譲ってくれと言われ、5000円を置いて行かれたそうです。家人が肥前狛犬のことを知らなかったので、だまして持って行ったみたいです。
ここの肥前狛犬は、以前、永渕さんが写真に撮っておられたのでそれを拝借します。
素朴な肥前狛犬が、1体だけあったのが、現在はありません。持って行った古物商の名前も分かりませんでした。民家の人も自分のものでもないのに、売り払うというのはおかしなものです。どこかで見つかって早く帰ってきてほしいものです。
次回は武雄市2です
2018年1月1日月曜日
号外.江戸時代の石造り馬小屋を発見
佐々宿にあった馬屋跡
佐々町には江戸時代、平戸街道が通っていて宿場や本陣屋敷などもありました。代官屋敷跡、佐々村庄屋跡も場所は特定されています。伊能忠敬一行が測量で来た時の宿も分かっています。しかし、宿場にあったはずの驛(うまや)は平戸街道ネットワークの会でも分かっていませんでした。
平戸藩でも江戸時代の早い時期に駅逓制度が定められ、田平の日の浦に中心の馬屋があり、江迎宿、佐々宿、中里宿、佐世保宿、早岐宿、御厨宿、志佐宿、今福宿に合わせて45頭の馬がいたと記録が残っています。平戸藩では、馬屋のあったところを「馬指(うまさし)役所」と呼んでいます。江迎の場合は馬指役所跡が後に江迎町の役場になりました。しかし、佐々町では馬屋は分かっていませんでした。石の文化を探し歩いていた私に、偶然にも佐々宿の馬屋跡にたどり着くことができたのでした。
現在工事中ですが、「驛(うまや)」というカフェができるそうです。建物と看板は出来ています。オーナーはこの屋敷で生まれ育った方ですが、2年間考えた末にこの名前を決めたそうです。ふさわしいと思いました。建物の外観は新しいですが、中の柱や梁は古くて、江戸時代のものもあるかも知れないそうで、解体前に見学会で見た人は大きくて素晴らしかったとびっくりしていました。オープン後に行くのが楽しみです。
この屋敷は代々、前田家が馬屋をやっていたそうです。前田家の家紋は〇の中に前の文字を図案化したもので、平戸の殿様からご褒美にもらわれたそうです。
ここから数軒離れた所の98歳になる長老(宮村宇一郎さん)に話を聞くことができました。この馬屋のある家のことを昔から「宿(しゅく)」と屋号のように呼んでいたそうです。馬屋は当然街道筋にあったはずですから、納得がいきます。
このカフェのオープンは2月以降だそうですから、その後、客として行き報告したいと思います。
佐々町には江戸時代、平戸街道が通っていて宿場や本陣屋敷などもありました。代官屋敷跡、佐々村庄屋跡も場所は特定されています。伊能忠敬一行が測量で来た時の宿も分かっています。しかし、宿場にあったはずの驛(うまや)は平戸街道ネットワークの会でも分かっていませんでした。
平戸藩でも江戸時代の早い時期に駅逓制度が定められ、田平の日の浦に中心の馬屋があり、江迎宿、佐々宿、中里宿、佐世保宿、早岐宿、御厨宿、志佐宿、今福宿に合わせて45頭の馬がいたと記録が残っています。平戸藩では、馬屋のあったところを「馬指(うまさし)役所」と呼んでいます。江迎の場合は馬指役所跡が後に江迎町の役場になりました。しかし、佐々町では馬屋は分かっていませんでした。石の文化を探し歩いていた私に、偶然にも佐々宿の馬屋跡にたどり着くことができたのでした。
上の写真石造り馬小屋の跡、右側の道路が平戸街道と言われているものです。正面から見ると、出入り口がありますが、最初の屋根は藁ぶきだったでしょうがすでに朽ち果てたものでしょう。砂岩の大きな石を組んだものは、他にも用途はあったでしょうが、使い回しされずに完全な形で残っています。平戸藩内でここだけしか見当たりません。
この屋敷は代々、前田家が馬屋をやっていたそうです。前田家の家紋は〇の中に前の文字を図案化したもので、平戸の殿様からご褒美にもらわれたそうです。
ここから数軒離れた所の98歳になる長老(宮村宇一郎さん)に話を聞くことができました。この馬屋のある家のことを昔から「宿(しゅく)」と屋号のように呼んでいたそうです。馬屋は当然街道筋にあったはずですから、納得がいきます。
このカフェのオープンは2月以降だそうですから、その後、客として行き報告したいと思います。
114.佐賀県白石町の肥前狛犬6
白石町6
ここも場所を特定することはやめておきます。1体だけの肥前狛犬です。おそらく他の所にあったものを後世この場所に移動させたと思われます。
隅に追いやられたようなところに寂しくたたずんでいました。
次回からは佐賀県武雄市の肥前狛犬です
ここも場所を特定することはやめておきます。1体だけの肥前狛犬です。おそらく他の所にあったものを後世この場所に移動させたと思われます。
隅に追いやられたようなところに寂しくたたずんでいました。
次回からは佐賀県武雄市の肥前狛犬です
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